2013年3月3日日曜日

桐島、部活やめるってよ

『桐島、部活やめるってよ』は書きにくいってよ。

桐島、部活やめるってよ('12)
監督:吉田大八
出演:神木隆之介、橋本愛




何で書きにくいかというと、パッケージにある通り「他人事じゃない」から。
映画について語るつもりが、自分の高校時代と照らしあわせて「あったわこういうパターン……」「いたよこういう奴……」と思わずにはいられないのである。
しかも、懐かしさとか思い出とかキレイな表現じゃなく、今も生々しく残る当時の感覚を容赦なくグサグサ刺してくるのだ。

バレー部のキャプテンの桐島が、ある金曜日に突然部活を辞めた。スポーツができて頭もよくて可愛い彼女もいる、校内ヒエラルキーの頂点たる桐島の不在で、周辺の人間関係には緊張感が漂いはじめ、直接的には桐島と関係のない生徒にも影響がおよぶ。
やがて彼らと、桐島とは何の接点も影響もないグループとが、火曜日に思わぬ形で関わっていく。

5日間だけ、高校だけ、ほとんど生徒たちだけで展開される、たったそれだけの話が、生徒同士のやり取りと、それによってあぶり出されるそれぞれのキャラクターでもって動く。特に、桐島が部活を辞めた問題の金曜日は、同じ一日が異なる目線でくり返され、主だった生徒たちの人間関係と性格を浮き彫りにしていく。
タイトルにもなっている桐島は、存在することはするのだが、映画の中には姿を現さない。短い間だが屋上にいた男子生徒が桐島ではないかとされているが、クレジットには「屋上の男子」と表記されているだけで、確証はない。

桐島に近いところにいる生徒たちは、桐島の姿や連絡を求めて必死になる。桐島は少なからず、彼らの世界(=高校生活)の中心または拠り所だからだ。
逆に、桐島から遠い生徒たちにとっては、桐島がいようといまいと世界は変わらない。
ただどちらに属するにしても、「結果を出さなきゃいけない」「仲間に合わせないといけない」「見下されている(ように思える)」など、そこが生きにくい世界であることは、誰にとっても同じなのだ。

アメリカのスクールカースト(ジョックス、ナードといった身分づけ)ほど明確ではないにしても、日本の高校にもうっすらとヒエラルキーは存在する。
「文化部より運動部のほうがエラい」
「同じ文化系でも吹奏楽部のほうがなんかエラい」
「必死で部活やってるよりは帰宅部のほうがカッコいい気がする」など。
何度も描かれる金曜日から浮かんでくるその様相は、あまりにも生々しく、高校時代どの階層に所属していた人間にも平等に痛さがよみがえってきそうだ。

その痛さがもっともキツイのは、ヒエラルキー下層の前田と、桐島の親友で校内ヒエラルキー上層の宏樹とのラストのやり取りと、宏樹と野球部キャプテンの最後のやり取りである。2つの会話を通して、物語は観客に残酷な現実と問いをつきつけたまま、フェードアウトしてしまうのだ。

この作品を好きになった大多数の人が感情移入するのは、神木隆之介演ずる映画部の前田と、同じく映画部で親友の武文だろう。
ルックスがカッコいいわけでもなく、スポーツはダメで、部活動は文化系においても最下層レベル(部室の場所が物語っている)。
いじめられてるわけではないが、女子に軽くバカにされてたり、いわゆる「イケてる」男子陣からの対応がちょっと雑ということは肌で感じている。
正面切っては言い返せないので、文句があるときは陰で言う(武文の『オレが監督なら絶対あいつらキャスティングしない』が、ちまっこいけど精一杯でスバラシイ)。
たぶん、自分も含めて大多数の『桐島』ファンの高校時代はこんな感じだったのかなと。

何より共感するのは、2人のゾンビ映画に対する愛情とリアリティ感。映画部顧問は「ゾンビはリアルじゃないだろ」と言うが、前田が話に持ち出そうとした『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』しかり、優れたゾンビ映画は少なからず現実の恐怖や生活習慣を反映している。
だから前田と武文も、渾身のゾンビ映画『生徒会・オブ・ザ・デッド』に、2人にとって半径1mのリアルである「疎外された学校生活」を投影している。さらに、2人に感情移入した人間ならば、すべてが入り乱れた終盤の「こいつらみんな食い殺せ!!」に感動すらおぼえるだろう。

ちなみに……作品と照らしあわさずにはいられない自分の高校生活。
スポーツはダメだし、文化部だし吹奏楽じゃないし、映画部顧問の語る半径1m以内の青春とは無縁だったし、内輪ネタやゴシップで盛り上がる女子グループの目には存在してなかったりしたし(映画の中の前田くんとまさに同じ状況すぎて痛い)、映画は撮ってないけど一番のリアルは映画とロックだったし、まぁ校内上層組じゃなかったなとは思う。
ただ、後に当時の友人が語ったところによると、校内では0.1%ぐらいしかいない万年私服生で(うちの高校には制服着用義務はなかった)、たいがい1人でウロウロしてる自分は「コワい人」だと思われていたという事実が。

恐るべきは、現在に至るまでこの方向性からほとんどブレていないということ。だから余計に、何度『桐島』を観ても痛いところは徹底的に痛いし、ほかの人にとっては笑えるところも笑えないどころか泣けてきてしまうのかもしれない。

そんなわけで、自分はどうしてもすべてを前田くんと武文くん目線から見てしまうので、これをかすみ、宏樹、沙奈、沢島、あるいは竜汰や桐島目線で見た人がいたら、その人は何を思うのかを知りたいところです。

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