2013年12月25日水曜日

悪の法則

シガーがいなくても、そこは血と暴力の国。

悪の法則('13)
監督:リドリー・スコット
出演:マイケル・ファスベンダー、ペネロペ・クルス




①きっかけは、ほんの出来心で少しばかり道を踏み外したこと。
②結果として、コントロールできない脅威に呑みこまれる。
③それまでの価値観も経験も理念も、もはや何の役にも立たない。
④コントロールできない脅威は、大して関係のない人間にすら容赦ない。
⑤取り残されることは、時として殺されるのと同じくらいむごい仕打ちになる。
⑥観客すら、不条理な世界に取り残されたまま幕を閉じる。
⑦テキサス~メキシコの間に、崩壊しゆく世界の縮図を描く。

コーマック・マッカーシーは作品比較されたくないかもしれないが、本作と『ノーカントリー』にはざっとこんな共通項がある。『血と暴力の国』は『ノーカントリー』の原作本のタイトルだが、本作にも当てはめられそうだ。

順風満帆な人生を送る、カウンセラーと呼ばれる弁護士。エル・パソに高級な住居を構え、アムステルダムで高価なダイヤを買い、恋人ローラにプロポーズしたばかりだった。ただ、少しばかり欲を出して、実業家の友人ライナーとその恋人マルキナとともに、メキシコの麻薬カルテル絡みのビジネスに手を染めていた。ビジネスに関わる裏社会のブローカー・ウェストリーからは、カルテルの恐ろしさを警告されたものの、カウンセラーはさほど理解できていなかった。
やがて、カルテルの運び屋の青年が惨殺され、運んでいた荷物が持ち去られた事件により、ビジネスに綻びが生じる。その綻びは瞬く間に脅威と化し、カウンセラーと周囲の人間たちを呑みこんでいく。

本作の原題は『The Counselor』。主人公の職業(弁護士)であり、周りからの呼び名。ベタな話だが、巻き込まれた名無しの主人公は、自分を含めた誰にだって置き換えられる。

『ノーカントリー』では、アントン・シガーという人間1人が、生と死の不条理を体現していた。本作には、不特定多数の悪党が出てくるが、彼ら1人1人はシガーのように強く印象に残る人間ではない。
例えば、あるシーンでバイクの高さをスッとメジャーで測ってスッと去って行く1人の男のように、淡々と自分の作業をこなしては退場していくだけ。ただ、その淡々とした作業からもたらされる結果は、恐ろしくむごい。裏切った(とみなされた)人間に対する報復すら、淡々とした作業にすぎない。

彼らには「言い分を聞く」なんて概念は存在しない。裏切りの関係者とおぼしき人間が実際無関係だろうと片足つっこんでいようと関係ない。1人1人は強力ではないが、彼らがひとたび動き出したら、止める術はないのである。
明確な1人ではなく、集団としての「コントロールできない脅威」が描かれているわけだが、正直悪党たちの動きの全体図はよく見えないまま。したがって、強いていうなら、コントロールできない脅威をもっとも具現化しているのは、映画史上屈指の嫌な処刑器具「ボリート」かもしれない。

ところで、直接的にはストーリーと関係ないのだが、本作で強烈な印象を残すエピソードが、ライナーがカウンセラーに語る「マルキナがフェラーリとセックスした話」。魅惑的と思われたものがグロテスクに転じるのを目の当たりにし、恐怖すら覚えながら、それでも離れがたいというライナー。相
手を脅かしつつも魅了し絡め取ることは、コントロール不能な脅威とはまたちがったベクトルで厄介な悪なのかもしれない。下手すると、絡め取られているのは観客のほうだったりもするし。

「誰が悪の法則を操るのか?」という予告や惹句が謎解きサスペンスのような雰囲気を醸し出しているが、本作はどう見ても犯人探しのミステリではない。むしろ、コーマック・マッカーシーが描く残酷な世界を、誰が生き残れるのかがキモなのかもしれない。
それは、世の中の残酷なルールを知っていて、自分はそのルールを操る側ではなく、ルールの一部なのだということも知っている人間だ。

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