ラベル 映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年2月20日月曜日

The Haunted World Of El Superbeasto

ゾンビ店長特製全部乗せ闇鍋。

The Haunted World Of El Superbeasto ('09)
監督:ロブ・ゾンビ
出演(声):トム・パパ、シェリ・ムーン・ゾンビ




自分には一からキャラクターや世界観を作りこみストーリーを作る能力が乏しいのだと気付いたとき、「どうせオフィシャルに出すもんじゃないんだから著作権とか歴史とか現実にはどうとか知るか!」と、とにかく合理性ガン無視で、好きなジャンルネタばかり詰めた話を書いたことがある。

とっくに死んでるロックスターもホラー映画のキャラクターも混在する世界で、ロック好きの小学生4人組(好きなジャンルはメタルやグランジなどバラつきがあるが、なぜかみんなブラック・サバスを尊敬している)が、サバス主催のロックフェスに行くため車を飛ばす。
途中フェスのオープニングアクトを務めるバンドのゴッドヘッドと道中を共にしたり、ホラーのクリーチャーや悪魔のシスターらに妨害されたり、ピンチになるとなぜかリッチー・エドワーズ(失踪してしまったマニック・ストリート・プリーチャーズのギタリスト)が現れて助けてくれたり、壊し屋キース・ムーンの生霊に取り憑かれているゴスの小学生がチェーンソー抱えて殺人鬼もドン引きの暴走を始めたりしながら会場に着く……というようなものだった。
結果、言うまでもなく、ただの味のない闇鍋と化したこの話は永久に封じられたのだった。

エル・スーパービーストは覆面レスラーであり、映画監督であり、(ポルノ)俳優でもあり、そして実生活でもヒーロー。世界の誰からも好かれ、同じくらい嫌われてもいる。撮影を終え、いつものようにバーに繰り出したビーストは、No.1ストリッパーのベルベット・フォン・ブラックにベタ惚れするが、その直後彼女は頭にネジの生えた改造ゴリラに誘拐されてしまう。
下心満載のビーストは、ヒトラーの首をめぐってナチスゾンビと追っかけっこを繰り広げていた、腹違いの妹にしてスーパースパイのスージーXと共に事件を捜査する。するとその背後には、運命の花嫁を娶ることで世界征服に乗り出さんとするドクター・サタン(本名スティーヴ・ワショウスキー)の影が……。

ホラー映画、おっぱい、セックス、モンスター、尻、ロボット、おっぱい、サント映画、尻、ナチスプロイテーション、おっぱい、オレの嫁(の尻)、キャットファイト、おっぱい……と、すべてがロブ・ゾンビの好きなものだけでできている世界。おおむね同じものが好きなゾンビ監督のファンにもたまらない世界となっている……それだけに日本のゾンビファンのために国内盤が出ていないことが無念。

車を飛ばしついでにマイケル・マイヤーズ(たぶんロブ・ゾンビリメイク版『ハロウィン』)を轢き逃げしたり、ナチスの古城にゾンビと狼男とセクシー女将校がいたり。
バーに行けばフランケンシュタインの花嫁やら大アマゾンの半魚人やらエイリアンやら『シャイニング』のジャック・ニコルソンやら、果ては『デビルズ・リジェクツ』のファイアフライ一家や『ファスター・プッシーキャット キル! キル!』のヴァーラまでいるなんて、どんな理想郷だよ!!!
しかも何がスゴいかって、そんなカメオ出演的キャラクターのために、ビル・モーズリィ、シド・ヘイグ、ケン・フォリー、ダニー・トレホ、ディー・ウォーレス、そしてトゥラ・サターナらが直々に声を当ててくれているのだ!
 
そしてそして音楽はゾンビ映画の常連にして『ザ・ペイル・エンペラー』ではマンソンと共同作業もしていたタイラー・ベイツ! 
さらにHard'n Phirmなるユニットが素晴らしくバカな曲をサントラに提供!
(オススメは、ただただ画面上で起きていることをそのまま歌うだけの『Zombie Nazis』、あるホラー映画の有名シーンを丸パクリしたくだりの『The Old Bloodbath Routine』、日本人が毎日アダルトアニメでヌいてますとバラされる『Catfight!』です)好きなものを寄せ集めるなら徹底しないと、美味い闇鍋はできないのである。

あ、もちろん一番セクシーで一番強くて一番頼もしいスージーXの声は、大好きな嫁=シェリ・ムーン・ゾンビ。思えば『マーダー・ライド・ショー』のベイビーでもその傾向は表れていたとはいえ、こんなにもナチュラルボーンアニメ声だったとはな……。

しかし、そんな豪華な声の出演陣でも特筆すべきは、メインとなるキャラクターを担当するロザリオ・ドーソンポール・ジアマッティであろう。
ロザリオ=ベルベット・フォン・ブラックは、脅威のおっぱいと尻を誇るNo.1ストリッパーではあるが、口汚さと下品さもNo.1。かなりダミ声寄りになりつつ、モンスターもドン引きするほど明け透けな悪口雑言の嵐をまくし立てる。
ここからNetflixの『ディフェンダーズ』シリーズの強くて優しい医師クレアの姿など到底浮かばないし、『シン・シティ』のゲイルにすら気品を感じてくる始末だ。

ドクター・サタンの声を充てるポール・ジアマッティも凄まじい。バカみたいな高笑いや情けない泣き声、勝手にドアを開けられた際の思春期みたいな絶叫、デビー・レイノルズの「タミー」をBGMに○○○○するウホウホハァハァ声まで! 余計なお世話でしかないのに俳優としてのキャリアを心配したくなるほどの暴走っぷりだ。
プロの声優(日本ならではの職業観かもしれないが)ではない芸能人が声の仕事をすることに苦言を呈されることが多々ある国内エンタメ、これぐらいの吹っ切れと技術力が必要とされているんじゃないだろうか。

無理やりな分類だがヒーローものと言えなくもない本作。しかし、実はそのヒーローたるエル・スーパービーストは、よくよく見れば結構ヤな奴だ。
自分がカッコよく見えているかどうかが最大の関心事だし、その次に関心が高いのはおっぱいと尻だし、回想シーンに出てくる高校時代などはいじめっ子ジョックスの典型。普通のホラー映画なら、比較的早いうちに死んでいるはずのキャラクターだ。むしろ、かつてイケてないオタクでいじめられっ子だったドクター・サタンのほうにシンパシーが湧くだろう。

それでもいじめられっ子の逆襲が世界を滅ぼすことを潔しとしなかったのは、はみ出し者魂が創造に向かったゾンビ監督ならではの視点なのか、問答無用のセレブリティでモテモテで物理的に強いヒーローというものに対する憧れなのか。
まぁ、最愛の嫁の化身たるスージーがこんなにも輝ける世界なら、ぶち壊したくはないもんだよ。

2016年10月11日火曜日

デビルズ・メタル

鋼鉄の絆! 鋼鉄の音楽! 鋼鉄のバカ!!

デビルズ・メタル('15)
監督:ジェイソン・リー・ホーデン
出演:ミロ・コーソーン、ジェームズ・ブレイク



「メタル好きだから」「ホラー好きだから」と直接の偏見をくらったことはない。……が、意を決してマリリン・マンソンTを高校(制服はあるけど着用義務はないので自分は私服でした)に着ていったものの、特に誰にも何も指摘されなかったのもそれはそれで寂しいもんだよ。めんどくさい悩みだけど。

母親が逮捕されたので親類の家に引き取られたメタル好きの高校生ブロディ。叔父夫婦はクリスチャン、同じ学校に通うイトコのデヴィッドはジョックスでいじめっ子、数少ない友人はロールプレイングゲーム好きのオタクたちと、家でも学校でもカースト最下位の生活だった。そんな彼の救いは、メタルを聴くこと、メタル仲間の不良ザックと友人になって結成したバンド「デスガズム」、デヴィッドの彼女ではあるが自分に好意的な学校いちの美女メディナ。
ある日、ブロディとザックは、数年前行方をくらませたギタリストの隠れ家で古びた謎の楽譜を手に入れる。これをデスガズムの曲として発表しちゃおうぜ! といつものようにガレージで演奏を始めるが、実はそれは悪魔を召還し世界に破滅をもたらす「黒い賛美歌」だった……。

『ホビット』シリーズや『アベンジャーズ』のヴィジュアルエフェクト担当が監督……という背景からは到底結びつかないような、黒い血ドボドボゲロゲロスプラッター。
何せ「黒い賛美歌」により悪魔に取り憑かれた人々(ほぼゾンビ?)が、身体のあらゆる穴から血を流したり豪快な血ゲロを噴出したりしている。
それに対して銃なんてスマートな武器は流通していないので、スライサーやら斧やらチェーンソーやらえげつなさ全開の凶器でメッタ斬り殺す。絵面はおおむねキタナい(注:褒めてます)が、ゴアゴア祭りの豪快さは気合十分だ。

良識から見ればケシカランもの同士ヘヴィメタルとスプラッターの相性は抜群だが、そこに謎の爽快感すら生み出してしまったもう1つの要素が、鋼鉄級のバカスピリット
森の中でデスガズムのミュージックビデオを撮影し(そして途中でやってられなくなる)、コープスペイントのまま意中の彼女と出くわしてしまう日常はもとより、悪魔憑依で街中が血みどろになってからも(メタル)バカはバカ。
即席の武器としてギターネックに有刺鉄線や丸ノコを装備し、チェーンソーでケツをぶった切りながら「メタルをくらえ!!」の雄叫びを上げる。この時点で「ヤベェなんか楽しそう」と思えてきたアナタはもう(気持ちだけは)デスガズムのメンバーです。

なお、街には「黒い賛美歌」の楽譜を狙う悪魔崇拝者たちもやってくるのだが、彼らもうっかり高級カーペットの上で首チョンパしてしまう程度にはおバカさんなので、案外メタルバカといい勝負である。

しかしまぁ、いくら銃の代わりにえげつない武器を持たねばならないとはいえ……まさかラバー製デカ○○○とか、×××ビーズとか、バイブレータ(もちろんそっちの意味でだ!)でゾンビもどきをシバけるとは。アダルトグッズも結構有効な凶器なんですね。

ところで、本作の監督および脚本のジェイソン・リー・ホーデン、割と本気のメタル系ボンクラだったんじゃないか。エンペラーイーサーンAxCx(これはジャケットのみの登場だけど)といった音楽のチョイス、カンニバル・コープスのボーカルに関するちょっとした考察といったバンド話はもとより、ブロディ君の置かれた状況や心境からの推定である。

実はメタルヘッズにザックのようなガタイのいい不良はそう多くはなく、大半はブロディ君のように大人しめ。
たとえ現状にムカついていてもめったに口には出せず、やられてもやり返せる度胸と腕力に欠けている。ドン底を見たあまりに、いっそ自分を取り囲むすべての崩壊を願ってしまうことだってある。
もっとも、それが実現してしまったら自分だけの力ではどうにも収拾つけられないボンクラなので、願い事には気をつけなくちゃならない。世界滅亡級というスケールには及ばなくとも、いちいち深い共感とあまりつつかれたくないイタさを呼び起こす描写に、監督がこちら側の人間に思えて仕方なくなる。

そこまではリアルだが、気になっていた女の子が自分に好意を持ってくれて、しかもメタルのCDを貸したら案外ハマってくれたくだりはさすがに願望の領域といえる。
CD貸した相手がそのアーティストにハマるなんてことも少なくとも私の場合なかなか無かったのに、メタルを聴いた瞬間の自己妄想(我、従僕を侍らせ世界の頂点に君臨す!!)までほぼ一致するなんて……やっぱりズルいんじゃないかブロディ君よ!!

ちなみに、本作はエンドクレジットの途中で席を立ったり停止ボタンを押してはいけない類。映画観てると常々思うんだけどさ、地獄って実は楽しいとこなんじゃないの!?

2016年7月24日日曜日

イット・フォローズ

それはいつかやってくる。

イット・フォローズ('15)
監督・デヴィッド・ロバート・ミッチェル
出演:マイカ・モンロー、リリー・セペ



だいたいにおいてオタク性と小市民性がまるっと反映された夢しか見てない自分が昔に見た、数少ない象徴的な夢が、この映画が描いてきたものに対するヒントかもしれない。

夢が進むにつれて私は小学生から高校生までに変わっているのだが、その時々で『ファニーゲーム』に出てくるパウルとペーターに似た白服の2人がついてきているのに気づく。
気づいた時点で逃げればしばらく現れないが、時間が経過するとまた現れる。
やがて、何故か海外の巨大スーパーのような場所にて、自分以外の人々にも自分のとは異なる「白い服の2人組」がついてきていることが分かる。みんなそいつらに立ち向かっていくのだが、倒すことは誰にもできないのであった。

19歳のジェイはボーイフレンドのヒューとデートを楽しんでいた。ある夜、車の中でセックスをしたあと、ヒューはジェイに麻酔薬をかがせて意識を失わせる。気が付くと廃ビルの中で車いすに縛り付けられていたジェイに、ヒューは説明した。
「君にセックスを通じてある呪いをうつした。あるものが君のあとを追ってくる。それはゆっくり歩いてくるが、確実に君のもとにやってくる。それに追いつかれたら死ぬ。君がそれに殺されたら、呪いは俺に返ってくる。だから、誰かと早くセックスして、呪いをうつせ」
その後、車で彼女を自宅の前に放り出すと、ヒューは逃げるように走り去って行方をくらませた。
それからしばらくして、大学の授業中に、ジェイは中庭から病院のガウンを着た老婆がこちらに近づいてくるのを目にする。声をかけてみても反応はなく、ただただこちらへ向かって歩いてくる。しかも、他の人には老婆の姿が見えていない。恐怖にかられたジェイは、妹ケリーや幼なじみのポールに助けを求める。

ゾンビに走ってこられたら逃げ切れる気がしない鈍足型なので、個人的にはできればモンスターには来るなら徒歩で来ていただきたい派。
しかし、本作の「イット=それ」は徒歩とはいえ、ついてこられたらとんでもなく厄介である。

ゾンビなら頭を撃てば倒せる。ジェイソンやマイケル・マイヤーズのような殺人鬼でも物理攻撃は効くし、上手くやれば注意を逸らすこともできる。
しかし、「それ」は頭を撃っても死なないし、除霊ができるわけでもない。何かこの世に未練や怨念を抱いたものでは……といったバックグラウンドも不明。とにかく対処法が分からないのだ。
仮に誰かとセックスすることで呪いをうつしても、その相手ががまた他の誰かとセックスしても、その相手が死んでいけばいずれ自分に呪いが帰ってくる。一時的に回避はできても、完全に消し去ることはできないのである。

さらに、「それ」には明確な形がない。あるときは老婆、あるときは小便を漏らし続ける下着姿の女。
明らかに不審な姿ならともかく、身近なよく知っている人間の姿をしていることさえあると、もはや誰が「それ」なのか分からない。「それ」は喋らないこと、呪いに感染していない人間には見えないことだけが識別手段だ。
ならば、今観ているシーンの奥に映っている、こちらに歩いてくる人影は? あれはただの通行人か、それとも……? ディザスターピースの手掛けるシンセ音楽も相まって、不安の絶えない映画である。


以下、ネタバレに該当する作品解釈の記述あり






セックスしたやつ(あるいはしそうなやつ)から先に殺されるのは、スラッシャー映画のお約束。
そこには「だから安直に快楽を求めるな、セックスには気をつけろ」という教訓的側面と、「どうせオレらには縁のない世界の話だよ! 死ねバーカバーカ!!」という作り手の過去のフラストレーションの反映的側面がある。

本作の「それ」が興味深いのは、そうした従来のホラーの法則に当てはまらないところだ。
「それ」はセックスによって伝染するものだが、セックスによって(しばらくの間は)回避することもできる。セックスは呪いでもあるが、生き延びる手段でもあるのだ。このあたりが、「それ」を単に性病のメタファーであるとは考えにくい所以である。

「それ」はおそらく死そのものである。
そう思われる理由は、友人ヤラが引用するドストエフスキーの『白痴』の1節からも匂わされているが、ジェイが19歳という年齢であり、デートやセックスが大人への道とされていることもある。大人の許可を得られなければ超えることのできない、デトロイトの中心と郊外を分ける「8マイルロード」への言及もそうだ。
大人への道を歩み出すことは、死が近づくことでもある。「それ」に感染することは、死を意識し始めることでもあるのだ。

誰にも死を避けることはできない。だからジェイたちは「それ」を消し去ることができなかった。
ただ、いつかやってくる死の恐怖を、心から信頼できる誰かとそっと分かち合うことはできる。それこそ人間の救いであり、強固な愛情の形ではないだろうか。
そう考えると、あのラストには不吉さと同時に、優しさも感じられると思うのだが。

2016年7月19日火曜日

ノック・ノック

「いいぞもっとやれ」なのか、「もうやめたげて!」なのか。

ノック・ノック('15)
監督:イーライ・ロス
出演:キアヌ・リーブス、ロレンツァ・イッツオ



そうだよな、いくら美女が訪ねてきたっていっても家に上げるのは怖いよな……と、教訓を得た気になってしまったがちょっと待て。
自分をキアヌ・リーブス(イケメン50歳)と同化するんじゃない。だいたい、同じ「大雨に降られて通りすがりの家に駆け込む」というシチュエーションでも、

自分の目には事態がこういう感覚で映っていたとしても……

 駆け込んできた相手の目には、事態はこう映るかもしれないぞ!

上記シチュエーションは『ムカデ人間』を引用しましたが、『ロッキー・ホラー・ショー』でも可です。

建築家のエヴァンはビーチへ休暇に行く家族を見送り、仕事のため一人家に残っていた。その夜、誰かが玄関のドアをノックする。開けてみると、豪雨でずぶ濡れの若い女が2人。道に迷った上、携帯が水没して困っているらしい。
エヴァンはその2人、ジェネシスとベルを家に招き入れ、タクシーを呼んでやることに。彼女らはエヴァンに好意的な素振りを見せ、次第に距離を縮めてくる。家族のことを思い拒否するエヴァンだったが、しまいには誘惑に負けて彼女らと3Pに及んでしまう。それが地獄の始まりだった……。

『ホステル』『グリーン・インフェルノ』といった王道イーライ・ロス作品に比べれば、本作で流れる血の量は申し訳程度。
だが、残酷度はある意味それらをしのぐ域に達している。

旅先で拷問されたり喰われたりといった残酷さには、現実感がないという人もいる。
遠くの地の実情など分からないし、殺人ウィルスや娯楽スナッフや食人族なんか存在しないだろうし、第一よそへ行って怖い目に遭うのが嫌なら、安全圏たる自宅に留まっていればいい。
しかし、その安全圏に実は恐ろしいものを招き入れてしまったら? そいつがあからさまに自分を殺そうとしなくとも、少しずつ確実に自分の築き上げてきた人生を壊し始めたら? 

「そんなの知らない人を家に上げなきゃいいだけのことだし……」と片づけるなかれ。浮気という形で、もうトラブルを招き入れちゃってる人がいないとも限らない。
「いや、浮気とか男女関係とか自分には無縁ですから……」とも片づけるなかれ。安全圏にうっかり招き入れる大ダメージは、人の形をしているとは限らない。例えば、SNSでプライベートな写真や動画をヘタに扱ってしまったとかな。
食人族に喰われることに現実感がないなら、こういうトラブルなら痛いほど現実的じゃないのかな。

イーライの世界には、もはや安全な場所など存在しない(それを言ったら実際、真の安全圏など存在しないけどね)。誰もが全身ただれたり手足を切断されたりするわけじゃない。しかし、肉体的ダメージは大したことなくとも、精神と社会性は生きたまま喰われるぐらいのダメージを喰らうかもしれないから、心当たりのある人は覚悟したほうがいいよ。

それにしても、そんなズタボロになる役をよく引き受けてくれたものだよ、キアヌ・リーブス。昨年の『ジョン・ウィック』で無双ぶりを披露してくれたかと思ったら、今度は美女2人相手にあっけないほどのやられ役ぶり。
元殺し屋でもない限り、「今の生活を壊してはいけない」「自分より(おそらく)弱いであろう相手を殴ってはいけない」という社会の目には弱い。

本作を「浮気心に対する痛すぎるしっぺ返し」とみなした場合、エヴァンの落ち度はギリギリである。バスルームで美女2人全裸待機の段階まで何事もなかったのだから。
とはいえ、そこまで我慢したレベルの浮気心であっても、些細なヒビから陶磁器が割れるようにあっけなく人生はズタボロになるのである。どうしようもない事故なんて言い訳じゃ済まない。

逆に「パーフェクトな人生に対する積もり積もった羨望」とみなすと、エヴァンは冒頭からして有罪である。
高級住宅地の広ーーい家に住み、立派な仕事をしていて、美人で芸術家で優しくてユーモアのある妻がいて、パパが大好きな子どもたちがいて、仕事相手も良き友人で、ターンテーブルとKISSのレコードまで持っていて(個人的にはコレが一番羨ましい!!!)……
と、「不公平だ! せめて早めにハゲろバーカバーカ!!」と地団駄踏みたくなる社会的優位性。経済的にも人間関係的にも負ける気しかない人間にしてみれば、せめてフィクションの中でだけでも形勢逆転してみたいじゃないですか!! というドス黒い発散にもなりうる映画である。
ただ、そこまでして人を転落へと追い込むジェネシスとベルに、いったいどんなモチベーションや人生背景があったのだろうか……と考えるにつけ、自分のざまぁみさらせメンタリティがいかにちっぽけか思い直させられるよ。


以下、ネタバレではないにしろひとまず伏せておいたほうがいいかもしれない記述あり




さらにもう一つ、イーライ自身が示した、この映画に対する興味深い仮説がある。それは、「ジェネシスとベルは実は存在せず、すべてはエヴァンの頭の中で起きたこと」かもしれないという可能性である。(映画秘宝2016年7月号P51参照)
鵜呑みにするにはいろいろと疑問が生じる話ではあるが、この説が正しいとしたら、きっかけは久々にターンテーブルでかけた爆音のレコードか、久々に嗜んでみたパイプか、あるいは家族の目を気にせず一人で過ごす夜そのものか。

いずれにしても、エヴァンは気づいてしまったのかもしれない。
オレはここで何をしているんだ? DJとしてカッコいい音楽をかけまくって、あちこちを飛び回って、若い女の子にモテまくっているはずじゃなかったのか? 家族を気にして、社会性を気にして、満ち足りてはいるけれどちっぽけな型にハマった人生じゃないか! オレはこんなはずじゃない……!!」等々。

つまり、その後すべてをことごとくぶち壊してしまったのは、エヴァン本人ということになるのだ。
そう思うと、「浮気も家族も自分には関係ない」「安全圏にいれば大丈夫」「トラブルを招き入れないようにすれば大丈夫」なんて、ますます言ってられなくなるよね。

しかし、いずれの観方にしても、揺るぎない事実をジェネシスとベルは語っていた。
犠牲になるのは家族
これこそ、最も残酷にして最も現実的な真実ってやつじゃないんですかね?

2016年4月23日土曜日

ミラクル・ニール!

人類みな猿の手。

ミラクル・ニール!('15)
監督:テリー・ジョーンズ
出演:サイモン・ペッグ、ケイト・ベッキンセール



もし右手を振るだけで何でも願いが叶うなら? 
じゃあ70㎜フィルム上映できる昔の映画館が復活するといいなー。
そこで『ヘイトフル・エイト』かけてほしいなー。
あと新橋文化劇場復活してほしいなー。
洋画の日本公開本国と同じくらい早めたいなー。
ファンの不評を買うヘンなプロモーションやめてほしいなー。
ラムシュタインまた来日公演やってくれないかなー。
……とか気軽に言っちゃったこの願い事の副作用って何なんだろうなー。

1970年代、人類は未知の生命体との接触を試みるため、探査機を打ち上げた。銀河の彼方に辿り着いた探査機は、宇宙人たちに回収された……が、地球のデータを見た彼らは地球人を下等生物とみなし破壊が採択された。
ただし、銀河系の法律により、破壊予定の惑星にも一度チャンスを与えなくてはならない。ランダムに選んだ地球人一人に全能のパワーを与え、その力をどう使うか見極めるのだ。
かくして、人並みに下心もあるが決して悪人ではなく基本的にお人よし、特別才能に秀でてもいないがバカでもない学校教師ニールが、偶然パワーを手にしてしまった……。

あのモンティ・パイソン×サイモン・ペッグの英国産コメディ! という大看板ではあるが、映画自体は小粒。サイモンを主演でフル活用するならそれぐらいの規模がちょうどいいのだろうけど、パイソンズの毒気を期待するとやや物足りないかもしれない
。パイソンズが吹替を担当している宇宙人たちの会議パートが当然一番パイソンズ度が高いのだけれど、劇場公開時にそこがあまり笑いどころになってはいなかったのは、彼らをあまり知らない層が多かったからだろうか?

その代わりに一番毒(と愛嬌)を振りまいているのが、故ロビン・ウィリアムズが声を当てた愛犬デニス。飼い主への忠誠心とケモノの本能が常にせめぎ合い、なかなか落ち着いてくれず、時としてその本能が飼い主にダメージを与えることにすらつながる(そして怒られてやっとシュンとする)。「犬はこっちの気持ちを分かってくれてる」という考えにも、人間側の思い込みにすぎないところもあるのかもなぁ。
それでも最終的には、やはり犬はあらゆる意味で人類最良の友なのだなと思わせてくれる。

もちろん、サイモンの可愛らしさもデニスに負けちゃいませんよ。パワーを操っているようでいてパワーに操られているわたわた感とか、ケイト・ベッキンセールへの片思いとか、パワーを使う権限を天敵に取られた結果とんでもない格好になっているところとか。ところで、「ザ・いい人キャラで、キュートで、人並みの下心くらいは持っている」というサイモンのキャラクターって、モンティ・パイソンのマイケル・ペイリンに近いポジションなんじゃないですかね。

日本のプレスでは何かと「超テキトー男」と言われているニールだが、何度か前述したとおり、彼は基本的にお人よしかつちょっとした下心を持っているだけ。多少のズルや手抜きをすることはあっても、決して適当に生きているわけではない。
つまり、悪意も善意も思いつきも、人類の大多数と変わらないのである。「理想的なボディになれ」「校長が僕に優しくなれ」といった身近でセコい願いも、「アメリカの大統領になれ」なんて大それた願いも、もし同じ全能の力を手に入れたら人類の99%が一度は試してしまうことなんじゃないだろうか。

そして厄介なことに、この願いはなかなか思うように実現してくれない。
死んだ生徒を生き返らせようとして「死者を甦らせろ」と言ったら町中ゾンビだらけになってしまったり、同僚の女性教師に片思いするも無視されている友人レイのために「彼女がレイを崇拝する」よう願ったらカルト宗教が誕生してしまったり。
こんな力を持っているのだからいっそ世界のためになることを……と思った善意の願い事は、もっとエラい事態を招いてしまう。ニールが人類の大多数と同じような存在なら、我々だって彼とほぼ同じことをやらかしてしまうんじゃないだろうか。

本作はW.W.ジェイコブスの短編『猿の手』のパイソンズ流パロディにも見える。どの人間がパワーを持っても、結果が「猿の手」になってしまうのなら……
うん、いっそ委ねてしまったほうがいいかもしれないね。「犬の手」に。


ちなみに、冒頭で述べた願い事の考えうる副作用としては……

  • 70㎜フィルム映画館が出来て『ヘイトフル・エイト』を上映→採算とれなくてすぐ潰れる、もしくは映画館が建った土地は実は保育所建設予定地で、地域に多大な迷惑をかける
  • 新橋文化劇場復活→耐久工事を無視したため高架線倒壊事故発生
  • 洋画の公開を早める→配給会社がにわかに忙しくなり過労死増加
  • マシなプロモーション→ファンは満足するが客足への影響なく費用だけがかさむ(あってほしくないことだけどなぁ)
  • ラムシュタイン来日→急に来日スケジュールを入れたことでバンドのツアースケジュールを狂わせてしまう

……ってことが最悪の事態かなぁ。やっぱり「責任持てんよ、ワシは」だから今の願いナシで。(右手を振る)

2016年4月7日木曜日

ヘル・レイザー

痛いの痛いの、飛んでこーーーーい!!!

ヘル・レイザー('87)
監督:クライヴ・バーカー
出演:アンドリュー・ロビンソン、クレア・ヒギンズ



「死ね」の婉曲的言い回し(ホラーファン編)として、
「お前なんかチアリーダーになれ!」
「クリスタルレイク行けばいいのに」
「エルム街で寝てろ!」等を考案。
その中にはもちろん「パズルボックス送ったろか」なんてのもあったのだが、これにだけは一つ懸念がある。
だって、もしも相手が痛いの大好きなドMだったら、「お幸せに!」の意味合いになっちゃうだろ。

フランク・コットンは、究極の快楽を得られるというパズルボックスを怪しげな商人から買い、開けようと試みていた。だが箱が開いた瞬間、フランクの身体には無数の鈎針が刺さり、全身がバラバラの肉片と化してしまう。
しばらくして、フランクの所有していた家に兄夫婦・ラリーとジュリアが引っ越してくる。実は結婚する直前にフランクと不倫関係にあったジュリアは、結婚生活を続けながらも彼のことが忘れられずにいた。
その引っ越しのさなか、ラリーがケガをして流れた血により、屋根裏の床下からフランクが変わり果てた姿で甦る。元の姿に戻るためには血肉が必要だと説明され、ジュリアは屋根裏に次々と男を連れ込み、フランクに与える。そんな義母の様子を訝しむのが、ラリーの娘カースティだった。

1978年の『ハロウィン』を皮切りに、80~90年代初頭にかけてシリーズが量産された『13日の金曜日』『エルム街の悪夢』などのスラッシャーホラー。
本作の公開はこれらの作品と同じ時代だが、一般的なスラッシャーホラーとは大きく異なる。

相違点の1つは年齢層。スラッシャーものにおいて、犠牲者の多くは若者。それも、セックスとドラッグに抵抗のない人間ほど殺される率が高い。これは、若さゆえの奔放さに対する罰や警告とも解釈されている。
だが、本作の中心人物は、ほとんどが中年の域に差し掛かった大人たちだ。「若さゆえの奔放さ」にはある程度免責があるが、いい大人になればなるほどそれはなくなり、命を落とす理由にも「業の深さ」がつきまとう。

もう1つは快楽の有り方。若者が安直に快楽を求めるがゆえに罰を受けるのなら、大人たちは快楽を突き詰めすぎる、あるいは時間をかけてでも求めすぎるがゆえに罰を受ける。フランクは究極の快楽を求めて禁断の箱に手を伸ばし、ジュリアはフランクの肉体を求めるあまり男たちを釣ってはフランクの餌にし、それ相応の地獄へ堕ちていく。

さらに言えば、スラッシャー映画では快楽を求めた代償として苦痛を味わうわけだが、本作では快楽と苦痛は限りなく近い存在。それはパズルボックスから呼び出された地獄の魔導士=セノバイトたちの姿を見れば一目瞭然なのだが、フランクとジュリアさえも、堕ちていくほどに快楽に近づいていくのである。

普通なら、こうした深い業や欲望に対抗するのが、ファイナル・ガールの若さと純粋さ。だが本作のカースティは、確かに一番若い存在ではあるが、家族から自立しボーイフレンドも持ち、ほぼ大人の域に足を踏み入れている。
何より、この恐ろしい事態に立ち向かい、魔導士にすら打ち勝とうとする姿勢からは、しぶとさと狡猾さが見て取れる。惨劇を引き起こす側にしても立ち向かう側にしても、「大人の作品」と言える。
ただ、ジュリアとカースティのこうした性格づけには、クライヴ・バーカーの女性嫌悪の影響が関わっているらしいのだが……。

一般的スラッシャーホラーとの相違点はまだ残る。殺害方法やセノバイトたちのスタイルに見て取れる、フェティッシュ性の高さだ。
刃物で刺す/ナタや斧といった大振りの武器で一撃といった殺しを男性シンボル的とするならば、ゲイでマゾ嗜好(そして女嫌いというのが公然の秘密である)のバーカー監督の美学がそれとは別の方角へ向かうのも納得できる。それが、「皮膚を鈎針で引っ張る/引きちぎる」という、繊細にして痛さの度合も高い死である。

だが、何よりフェティシズムにあふれているのは、パズルボックスが開けられるとともに現れるセノバイトたちだ。裂け目や切れ目が規則正しく入れられ、フックを引っかけた痕まである皮膚は、サスペンションやスカリフィケーションの進化系ともいえるマゾヒズムの芸術。さらに、その身体を包む黒いレザー&ラバーの衣装は、ゴスのスタイルにも通ずる。
中でも、一際規則正しく碁盤の目にピンをうずめた頭のピンヘッド(本作当時は単にLead Cenobiteと呼ばれていた)のカリスマ性たるや。演じるダグ・ブラッドレイの英国舞台人然とした大仰な喋り方も相まって、不思議と神々しさすら感じられる。

セノバイトは、もはや快楽も苦痛も突き抜け、悟りの域に達した者たちだ。その前には、フランクやジュリアの際限ない欲望すら泥臭く見える。それなら(たとえ実質変態でも)より崇高な域に達したほうがまだいいのでは……と勘違いし始めた方がいらっしゃるのなら、クライヴ・バーカーの地獄世界はなかなかに居心地いいのではと思いますよ。

ちなみに、昨年リバイバル上映を記念して久しぶりにヘルレイザー3作目までを観返した際、深夜のノリか地獄からの囁きか、危うく海外オークションサイトから真鍮製パズルボックスをポチりかけていた。この体験を「地獄の淵からの生還」と勝手に呼びたい。

2016年3月28日月曜日

ヘイトフル・エイト

ヘイトフル・アメリカ、ホープフル・アメリカ。

ヘイトフル・エイト('15)
監督:クエンティン・タランティーノ
出演:サミュエル・L・ジャクソン、カート・ラッセル



「愛憎半ばする関係だね」
マリリン・マンソン師匠は自身とアメリカの関係性をこう語った。
本作観賞後、もしかすると同じ問いかけをしたら、タランティーノも同じような答えを返すかもしれないと思った。ただし、師匠の倍以上に喋りながら。

雪山で足止めをくらった賞金稼ぎマーキス・ウォーレンは、レッドロックの町へ向かうために通りかかった1台の駅馬車に同乗させてもらう。馬車に乗っていたのは同じく賞金稼ぎのジョン・ルースと、彼と鎖で繋がれた賞金首の女デイジー・ドメルグ。ルースはデイジーをレッドロックへ護送し絞首台へ送る予定だ。道中、レッドロックの新任保安官だという、元黒人殺しの略奪団員クリス・マニックスも同乗してきた。
猛吹雪が迫ってきたため、駅馬車はレッドロックまでの中継地点である「ミニーの服飾店」に停車。店には同じく吹雪で足止めされた3人の男たちがいた。レッドロックの絞首刑執行人でイギリス人のオズワルド・モブレー、カウボーイのジョー・ゲージ、南軍の元将軍サンディ・スミザーズ。そして、ミニーに留守の間店を任されたというメキシコ人のボブ
それぞれの素性は果たして本当なのか? 実はつながりのある者たちもいるらしい? 疑惑と緊張感が高まる中、遂に事態は殺人へと発展する……。

日本では「密室ミステリー」と宣伝された本作ではあるが、ミステリーならキモになるはずの「誰が/どうやって殺した?」問題は、まったくと言っていいほど関係がない。むしろキモとなる謎は「こいつら、実際のところどういう奴なんだ?」「どう決着をつけるんだ?」である。そこがタランティーノ自身言及していたように、『遊星からの物体X』を彷彿とさせる。

ただし、『物体X』のようにクリーチャーが潜んでいるわけではないので、疑心暗鬼サスペンスはグロテスクな何かが現れることもなく中盤までずっと会話劇中心に展開される。映画自体およそ3時間続くのだから、タランティーノ最大級の長丁場である。

従来のタランティーノなら、『レザボア・ドッグス』のマドンナ話なり『パルプ・フィクション』のオランダのマクドナルド話なりに該当する、本筋に一切関係ないムダ話を入れているのではないかと思われるが、困ったことに本作の会話劇にはキャラクターの人となりや主義や思想が織り込まれているため、ムダなところがない。『イングロリアス・バスターズ』のランダ大佐の長喋りに削れるところがないのと同じだ。
ただし、ある事件を転機に、一気に山小屋の中は血しぶきと脳髄まみれになっていく。『物体X』転じてもはや『死霊のはらわた』。そりゃ3時間で満腹にもなりますよ。


以下、ネタバレ記述あり





もともと主要登場人物の大半がロクな輩じゃない傾向にあるタラ映画だが、今回の主要メンバー8人はロクなもんじゃないなんてもんじゃない。
賞金稼ぎマーキスは元北軍少佐で、南部の白人を殺しまくっていた黒人。しかも白人憎悪が高じたあまり、聞いてるほうがドン引きするほどの暴挙もやらかしたことがある。
一方マニックスやスミザーズ将軍は黒人を大量虐殺してきた元南軍。必然的に南北戦争時の憎悪がたちこめる(そして、サラリと屋内を南北や中立地帯に分けていくのがイギリス人だ)。
その南北対立には積極的に関わろうとしないいわばリベラルのルースとて、何かにつけてデイジーを鎖で引っ張り、全力でぶん殴る。
同じく対立に関わらずとも、一番「コイツ怪しい」感を振りまいているのは、口数の少ないカウボーイ(典型アメリカン)と、突然店番になっているメキシコ人(典型移民)

密室の中は、人種と歴史にまつわる暴力と憎悪が渦巻くアメリカだ。
ただそうなるとデイジーの立ち位置が微妙になる。
一見一方的な被虐対象である彼女だが、ルースは決して女だから平気で殴っているのではないし、殴られ続けるデイジーも懲りた様子もなくルースをバカにし、ゲラゲラ笑う。
賞金首の大罪人と言われてはいるが、デイジーが具体的にどのような罪を犯したのかは分からない。

だが少なくとも、彼女はリンカーンがマーキスに宛てた手紙(実はマーキスが作った偽物だが)にツバを吐き、まじめに働く気のいい人々が彼女のせいで命を落とし、実は偽リンカーンの手紙に涙する純粋さを持ち合わせていたルースも死んだ。
彼女には「アメリカの良心」をことごとく潰す純粋悪の役割がある。そう思うと、彼女が『エクソシスト』の悪魔に憑かれたリーガンのごとき鬼の形相になっていくのも分かる気がするのだが。

『イングロリアス・バスターズ』ではナチスに、『ジャンゴ 繋がれざる者』では奴隷制度に対し、フィクションの世界ならではの代理復讐を遂げてきた近年のタラ。当初は本作もその流れを汲んでいるように思えたが、これは復讐ではなく希望だった。
オズワルドいわく「執行人が悪人の首を吊れば正義、犠牲者の遺族が殺人犯を殺せば西部の正義。一般に西部の正義のほうが好まれるが、それは正義ではない」(要約)
白人嫌悪の元北軍黒人マーキスと、黒人嫌悪の元南軍白人マニックスは、「悪人は捕えて正式に絞首刑にすべき」というルースの意思=西部劇以降のアメリカの正義を継ぎ、2人がかりでデイジー=アメリカの善を殺す悪を吊し上げる。
そこに至るまでに血と死体の山が築かれているものの、「対立を超えて手を結び正義を成す」という字面を拾えば、アメコミヒーローにも通ずるアメリカの正義に対する希望の姿が見えてくる。

タランティーノはフィクションの力を、悪を倒してスカッとさせることだけでなく、その先に現実世界に希望を見出すためにも駆使した。偽リンカーンの手紙が、いち黒人の身を守る護符から、対立の壁に空いた最後の風穴になったように。
この映画が、いまだアメリカのどこかでくすぶっている憎悪に対する偽リンカーンの手紙になったとしたら……そんな希望ぐらい託してみてもいいんじゃないだろうか。

2016年2月18日木曜日

私はゴースト

幽霊だって恐怖する。

私はゴースト('14)
監督:H.P.メンドーサ
出演:アンナ・イシダ、ジニー・バロガ



「幽霊=時間が止まった人」(映画秘宝2013年6月号『クロユリ団地』評より)。
なら自分が幽霊になったら、毎日のようにやってることを怪現象として起こしちゃうんだろうな。夜中にDVDプレーヤーをオンにしたり、マリリン・マンソンを勝手に流したり……いやそれ怪現象っていうかただの迷惑行為じゃん! と一人ボケツッコミをやってて気づきました。
そもそも、そんな幼児向けプールよりも浅い業ごときじゃ、幽霊にならないって。

ある屋敷で、いつも同じように目を覚まし、同じように朝食を作り……と、常にまったく同じパターンの生活をくり返している女性エミリー。あるとき母の寝室に入ると、どこからか女性の声がする。
「エミリー、私のあとに続けて言って。“私はゴースト”、“私はゴースト”、“私はゴースト”……」
声の主はシルヴィアという霊媒師。エミリーは何年も前に死んでいて、幽霊となっていたのだった。そしてシルヴィアはエミリーの除霊を何度も試みているのだが、なぜかうまくいかないのだと言う。
なぜエミリーは死んでしまったのか。なぜ成仏できずにいるのか。シルヴィアの声に導かれながら、エミリーは自身が死に至るまでのことを思い起こしていく……。

タイトルの通り、幽霊の視点から描かれた物語。それ自体は映画史において珍しいものでもないのだが、上記の「幽霊=時間が止まった人」の定義に沿うように、エミリーの同じ生活パターンを執拗なほど繰り返し映し出す点は新しい。
屋敷そのものがどこか古風であり、白いドレスに長い黒髪というエミリーの古典的な出で立ちがありながら、何とも新しいものを観ているように思える。

物語が動き出すのは、エミリーが霊媒師シルヴィアと出会ったとき。といっても、シルヴィアは声だけの存在でエミリーには姿が見えない。普通は姿が見えないのは幽霊のほうだが、逆に幽霊に生者の姿が見えないという点もまた斬新に思える。
エミリーが次第に自らの死を自覚し、記憶を手繰っていくと、状況に次なる変化が生じていく。幽霊が除霊されていく過程がこんなにもシュールでユニークとは……と感心すると同時に、自分がこんなシュールなものを体験するのはゴメンだなとも思わせてくれる。

ここまでは、物語はひたすら淡々と進められていき、ほとんど大事が起こらない。これはホラーじゃなくて実験映画じゃないか? ……と思ったところで、ラストの15~20分、突如本作は身の毛もよだつホラー映画と化す。
幽霊が主人公ということは、生きている人間のほうが怖いという結論になるのか? というのが大方の予想になりそうだが、実は本当に怖いのは「自分の意識していない自分」なのだ。本作では、それがよりによって最も恐ろしい形で現れる。
そして最後に、「私はゴースト」の言葉がまた別の意味を持ったとき、恐怖は切なさで上塗りされていくのだった。

2016年1月18日月曜日

Let Us Prey(デス・ノート/デッド・ノート)

ノートでは死なない。殺し文句で死んだ。

Let Us Prey(デス・ノート/デッド・ノート)('14)
監督:ブライアン・オマリー
出演:リーアム・カニンガム、ポリアンナ・マッキントッシュ

 

↑下段が欧米版。個人的には左のデザインが好きです。

OK、話をまとめよう。
まず、本作の原題は『Let Us Prey』(我らを苦しめ給え、みたいな造語?)だった。
が、日本で「未体験ゾーンの映画たち2016」経由で公開するころには『デス・ノート』になっていた。
当然、某コミック原作の死神のノートを操る天才の話に便乗したんだよな? 折しもアダム・ウィンガード監督でハリウッドリメイクの話もあったので、ネット上には「紛らわしい!」「別モノじゃん!」との声もあった。ちなみに本作はアイルランド作品だ。
で、そういった意見を受けて、DVD発売の際に『デッド・ノート』に改題したのな。
……あのさ。
こんな面倒なことするぐらいだったら、最初から紛らわしいタイトルなんか付けるなよ!!!


さらに、ネット上における邦題に対する意見の中でも、唯一そいつは聞き捨てならんという一言が。
「本家に便乗したC級映画」
……あのさ。
お前は映画本編を観たのか!? 便乗タイトルだからって、アサイラム映画と同じにしてないか!? (※アサイラムはタイトルやストーリーのパチモン臭さと志の低さがチャームポイントです)

とりあえず、ホラー映画に耐性さえあれば最後までご覧ください。面白いかつまらないはともかく、小粒ながらにオカルトもゴアもきちんと詰めこみ、マジメに取り組んだ映画であることだけは分かるでしょうから。
それに、この映画に出てくる問題のノートに名前書かれてるぐらいなら、コミック本家のデスノートに名前書かれて死んだほうがまだマシだって思うかもしれませんね。

↓この本編画像は、上記騒動に対する私の心境とお思いください。

夜中、田舎町の警察署に初出勤する新任警官のレイチェル。署に向かう途中、猛スピードで走ってきた車が、道の真ん中で男にぶつかるのを目撃する。運転手の少年を捕まえたものの、はねられたはずの男の姿はなぜかどこにもなかった。
その後、同僚の警官たちが問題の男を発見してくるも、彼は一言も発さないし身元も分からない。事故のショックを疑って呼ばれてきた医者は、男に何かを囁かれると「なぜ知っているんだ……」と顔色を変え、ハサミで男に殴りかかる。
深夜0時が近づくにつれ、署内は不穏な空気に満ちる。男と言葉を交わしたり、物越しにでも接触したりすると、自身が隠してきた罪や暗い過去の記憶が呼び起こされるのだ。かくして、ある者は暴力に走り、ある者は自ら死に向かい、小さな警察署内は血みどろの地獄絵図と化していく……。

「我々は救済のゲームをしているのではない。ただの報いだ」
謎の男が語る通り、ストーリーの中心にあるのは、それぞれの罪に対する報い。
この夜、警察署に集められた人々は、一見単なるダメな人間だが、その裏にはとんでもない罪を抱えている。そのうえ良心の呵責すらない(もしくは押し込めてしまった)奴らばかり。ダメさの見えないレイチェルとて、とんでもないトラウマを抱えているのだ。
新人以外全員後ろ暗すぎるなんて、どんだけダメな警察だよとも思うけれども。

そんな罪を隠した人間だからこそ、謎の男のノートにリストアップされるのである。男とわずかにでも接触さえあれば、彼らは嫌でも自分の闇を覗かされ、男が手を下さずとも破滅へと向かっていく。
つまり、ノートそれ自体に死の力はないんですよ皆さん!!!

罪、救済、報いといったキーワードから分かるように、本作には宗教色がうっすら漂っている。そこから謎の男の正体も分かるようになっている。明言はされないが、確実に分かるヒントはちりばめられている。
特に魅せ方が良いのは、男が収監される部屋が6番ということ。いや、もうキマりすぎててニクい。

そうなると、もっとオカルト路線で押し進めてもいいように思えるが、終盤に向かうにしたがってこの映画は怒涛の血しぶきゴアゴア祭りへ向かう。しかも火の海まで出現。ショットガンで人体は肉片と化し、『サスペリアpart2』を彷彿させる死に様もあり、机の脚や靴磨き機の思いがけない使い方まで拝めてしまう。血が見えなくとも、首吊りの描写はゴギンと骨が折れる感じが伝わってくる生々しさ。

この血祭りの中心にいるのが、上記写真のショットガンおじさん。当初見せていたノーマルな顔と、後に分かってくる裏の顔を比べるに、業の深さの衝撃度はかなり高い。
そして、頭や胴に有刺鉄線を巻きつけて現れるこの姿。どう見ても堕ちたキリストであり、だからこそ留置所でクールに構える静かな男との対比が浮き彫りになるのだった。

これだけでも自分にとってはたぎる展開だったのだが、本作を支持する決め手となったのは、最後に男が語ったことだ。
「人々は私のせいにしたがるが、私はただの目撃者だ。私が見たものには天使も涙する。私を否定してもいいが、君の目に宿る炎は私だ。君にこの地上の腐った、邪悪な魂をすべて与えよう。君は復讐し、私は彼らの魂を燃やす。正直に言えば、君なしでは凍えそうだ」(訳が不正確なところがあるとは思いますが)

2016年が始まって2週間足らずのうちに、こんな殺し文句(口説き文句ともいえる)が聴けるとは!! しかもリーアム・カニンガムの渋声で! 
私の身体本体はきちんと座席に座ったままだったが、私の魂は奇声を発しながらのたうちまわっていたぞ!! 謎の男の側に転ぶ人類、地上に結構たくさんいるはずだぞーーーー!!!

ちなみに、少人数で展開し、かつ皆が皆濃い存在感を放っているぶん、リーアム・カニンガムをはじめキャストの皆さんにも注目が行きわたった。
警官の一人を演じていたブライアン・ラーキン、どこかで聞いたことあると思ったら、『ヒトラー最終兵器』のバイオ・ソルジャーより強い無双オヤジ、ドロコフさんだったのな。そして上司の巡査部長役のダグラス・ラッセルも『ヒトラー最終兵器』出演していたのな。
ヒューム医師を演じていたナイアル・グレイグ・フルトンも気づかなかったけど、実は「未体験ゾーンの映画たち2015」の『アノマリー』でもお目にかかってたんですね。それ以前に「フラーケ(ラムシュタインのキーボーディスト)に似てるなぁ」とか思っちゃったりしてましたが。

何より驚愕のフィルモグラフィをお持ちなのは、レイチェル役ポリアンナ・マッキントッシュ。
実は、ジャック・ケッチャム原作の『オフスプリング』『ザ・ウーマン』で、野生の食人族女を演じていたのはこの方だったのだ。
自分になじみのあるところでいえば、『フィルス』でアレの拡大コピーにダマされる婦人警官。ずいぶんと体を張って挑んでくれる人だと思っていたら、ジャンル映画の星のようなキャリアをお持ちだったんですね。

設定からゴアからセリフからこんな小ネタまで、オマリー監督は、私の脳天に風穴開けるためにこの映画作ってくれたにちがいない……という勘違いすら覚えさせてくれるのだった。

アメリカン・バーガー

アメリカン(本当はスウェディッシュ)・バーカ。

アメリカン・バーガー('14)
監督:ヨハン・ブルマンダー、ボニータ・ドレイク
出演:ガブリエル・フレイリッシュ、フリードリク・ヒラー



2015年のクリスマスには『グリーン・インフェルノ』を観て、12月29日(ヒフとニクの日)には新文芸坐で『悪魔のいけにえ』と『食人族』の二本立てを観る。
で、2016年映画初めが「未体験ゾーンの映画たち2016」のコレ。人生でもっとも人肉食づくしの年末年始となったのだった。

ヨーロッパをバス旅行中のアメリカ人高校生一行。本日のプログラムは、とある小さな村の主産業である「アメリカン・バーガー」の工場見学。商品のウリは「使用しているお肉は100%アメリカ産」……それもそのはず、この工場では見学にやってくるアメリカ人たちをバッサバッサと殺し、その肉をハンバーガーの材料にしていたからだ! 
到着早々大半の生徒や先生があっさり血祭りにあげられる中、逃げ足の早さ、トイレ中、覗き見中などのおかげで生き延びた一部のチアリーダー、ジョックス、オタクたちは、森の中を逃げ惑う。果たして彼らは、情緒不安定な工場長や仕事熱心な解体職員の手から逃れられるのか……。

今現在食人映画推しモードの自分ではあるが、はっきり言ってこの映画における人肉バーガーや食肉解体は、「どうでもいい」程度の扱いである。
血しぶき描写だって、あからさまに手のひらに血糊パックを仕込んでいるのがバレバレで、ゴア度ゼロのチープ度マックス。
この場合重要なのは、「アメリカン」と「バーガー」……ではなく「バカ」なのだ。

本作はスウェーデン映画で、実はアメリカ人一行を演じる役者さんもみんなスウェーデン人。つまり、いかにもモテ男な金髪ジョックスも、セクシーでアタマの悪そうなチアリーダーも、知恵が回りそうで回らない童貞丸出しオタクも、スウェーデン人の思うバカなアメリカン像なのだ。
とはいえ、映画好きなら国籍問わず、こういうアメリカ人ステレオタイプを思いつきそう。当のアメリカ人がこの映画を観たらどう思うんだろうね。ときどき映画で見かけるトンデモ系日本人よりはマシな気がしちゃうんだけどね。

なお、ここに出てくるキャラクターたち、実は名前がない。オープニングとエンディングのクレジットで確認できるが、「デブのオタク」「金持ちのお坊っちゃん風オタク」「イケてるチアリーダー」「クォーターバック」「先生その1」等、ヒドい記号である。
唯一名前のある人間ですら、「目つきがキモいオタク、通称マイク」だもんな。

アメリカ人像のみならず、「スウェーデン人の思うバカなアメリカ映画像」もふんだんに取り入れられている。バスが停止するたび引率の先生が顔面からフロントガラスにぶち当たる繰り返しギャグに始まり、何としてでもこの休みの間に童貞卒業したいオタクたちの空回りが続いたり、ダースベーダーモノマネ始まったり、逃げるアクションシーンで突然スローモーションになったり。
一番セクシーなチアリーダーが逃げる間に服が破れ続け、しまいにはキャミソール1枚&ノーパンになってしまうギャグは、ムダにダラダラとしたショットすら愛着が湧くほど。
小便&大便ネタとか、ムダにゲ○吐くシーンが入るといったド底辺の笑いもあるけど、どちらかといえばわざとこの手の下品ネタやるのはアメリカよりヨーロッパのほうが多い気が。

ただ、最後の最後にこの映画は、もっともアメリカ的でない解決法を選ぶ。それは、「やられたらやり返せ」とばかりに武器を手に取り敵を血祭りに上げにいくのではなく、ある意味で秀逸な発想にして、とんでもなく穏便なやり方なのである。
まぁ、結局のところ大バカであることに変わりはないのだけれども。

2015年12月28日月曜日

グリーン・インフェルノ

捌かれるは「善人」のみ。

グリーン・インフェルノ('13)
監督:イーライ・ロス
出演:ロレンツァ・イッツォ、アリエル・レヴィ



今年上半期の『ハンニバル』シーズン1、『悪魔のいけにえ』リバイバル、そして本作を機に、自宅の料理に肉料理の頻度とレパートリーが増えました。

オーブンも石窯もなくてもローストビーフは気合いで出来る。

また、コレを観たら肉が食いたくなるにちがいないという予想の通り、観賞後に劇場近くの焼肉屋でハラミとホルモンの定食をいただきました。今まで食ってきた焼肉の中でトップクラスに美味かったです。今まで2~3回ぐらいしか食ったことないけど。

No Good Deed, No Yakiniku. 善行なくして焼肉なし。

極私的結論:食人映画は食卓を豊かにする。


正義感の強い大学生ジャスティンは、過激な学生活動団体ACTに加わり、ペルーの森林伐採を阻止して奥地に住む原住民を守る抗議活動に参加する。大胆かつ強引なACTのやり方は成功に終わり、ネット上での反響も拡大……
と思った矢先、彼らを乗せたヘリが突如火を噴いて操縦不能になり、ジャングルの中に墜落。かろうじて生き残ったメンバーを待ち受けていたのは、森林伐採から守ったはずの原住民・ヤハ族。だがヤハ族は学生たちを麻酔矢で昏倒させ、村まで運んで檻に閉じ込めてしまった。彼らは他の人間を食糧とする食人族だったのだ……!

「未開の地で原始的生活を送っている人だからって、食人族として描くなんて!」という政治的正しさから今日めっきり作られなくなった食人族映画を、ホラー映画界で絶大な信頼を寄せられる監督イーライ・ロスが蘇らせた。
エンドクレジットに羅列されている通り、本作のバックグラウンドには、『食人族』『人喰族』をはじめ80年代に量産されていたイタリア製食人映画へのリスペクトがぎっちり詰まっている。

性格も良ければ頭も良いイーライ監督のこと、当然本作も過去の食人映画の焼き直しではなく、きちんと現代的にアップデートされている。
というわけで今回食人族の皆さんに美味しくいただかれるのは、ヤラセドキュメンタリーのために村を襲うクズ人間(食人族)でも、身勝手な理由で原住民を虐殺するクズ人間(人喰族)でもない。
それなりの正義感を持ってはいるが、善意が一方的かつ押しつけがましいことに気付いていない、とはいえ完全にイヤな奴ではない、むしろ一般的な「いい人」たちである。
つまり、食人族映画を野蛮だ差別だ偏見だと糾弾した人々に限りなく近いのである。
自分たちが正義のもとに擁護したつもりの相手に、食人を含む彼らの慣習という価値観を逆に押しつけられるはめになるのだ。

そう思えばホラーファンとしてざまぁみさらせ感が浮上するが、義憤にかられて何らかの記事をリツイートしたり、署名運動に参加したりすることは誰にでもあるだろう。「喰われる側」のボーダーラインも、実は我々のほうにぐっと近づいてきたのではという気もしている。ヤハ族の皆さんにしてみれば、食肉に善も悪もないからね。強いて言うなら脱走は悪だけど。
そうそう、犠牲者メンバーの多くは「多少の欠点はあれど基本的にイイ奴」ではあるが、その中にコイツはちょっと人間的にどうよというレベルのゲスはいる。
というか、よりによってそんな奴が(あるいはそんな奴だからこそ)、カリスマ性と統率力のもとイイ人たちを先導している。……という設定が大変に現実的ってところこそ、食人よりもえげつないんじゃないですかね?

本作を観るにあたって事前学習のため『食人族』と『人喰族』を観賞したとき、個人的にちと納得のいかなかった描写が「生食」であった。肉類を生で食えるのは新鮮なうちだけだから、それはそれでアリじゃないか? とも思うのだが、食糧である以上保存のために焼いたり燻したりしてるはずなのになー……と、比較的どうでもいいところで引っかかっていたのだった。
だから、本作における火を通した肉調理には、勝手ながら大変感心した。きちんと部位を分け、下味を付けたうえで石窯で蒸し焼きと、旨味を凝縮できる調理法。
しかも、つけあわせの野菜もセッティングしているのだから、栄養のバランスもとれている。大変に納得のいく食生活だ。
食人映画の調理法と栄養バランスをどれだけの人が気にかけるのかは置いといて。

何より、最大のゴアシーンである食人描写を、ブラックなギャグとして描いているのが監督のエラいところ。新鮮な食材を手際よく解体するそばから、特権により希少部位を食す長老ばあちゃんの至福の表情、喜ぶ村人たち、世間話をしながら下ごしらえをするおばさんたちや、お手伝いをする子どもたちが映し出される。
異邦人にとっての地獄絵図は、原住民にとってほのぼの日常生活なのかと、大規模カルチャーギャップを感じる瞬間である。
ただ、子どもにウ○コネタがウケる点だけは万国共通か?

ちなみに、本作にも肉の生食描写はあるのだが、一応そうなった理由があるし、何よりトップクラスの笑いどころに通じているので個人的には大いに納得している。マリファナギャグにそんな二重トラップがあるなんて……!

ここまで満喫しておきながらなんだが、本作を観たあと、ホラーファンの記憶に新しい『食人族』Blu-ray発売中止未遂事件を思い起こさずにはいられなかった。
『食人族』観賞時、食人よりも串刺し人体よりも観ていてキツかったのは、亀を解体して食うシーンだった。殺したあとにきちんと食べたことは、撮影のために動物を殺してもいい理由にはならないが、動物が虐待された(とみなされる)映画をソフト販売から抹消していい理由にもならない。

販売中止に働きかけた人間がどんな人間かは分からない。ジャスティンみたいに正義感が強いのはもちろん、ジョナみたいに純朴かもしれないし、ラーズみたいなお調子者かもしれないし、サマンサやダニエルみたいに身を挺して誰かを守ろうとするしっかり者かもしれない。
だが、ホラーやブラックジョークや不謹慎エンターテインメントを愛する人間の目には、『食人族』を抹消しかけた人のイメージは、ユーモアを解さず他者の犠牲を問わず、実態は俗にどっぷり浸かっているアレハンドロになってしまうだろう。

2015年11月6日金曜日

キングスマン

マイ・フェア・ジェントルマンになんかなるものか。

キングスマン('15)
監督:マシュー・ヴォーン
出演:コリン・ファース、タロン・エガートン




えっ、秘密基地作って世界征服をたくらむ悪のボスとガジェット持ったスーパースパイが戦う映画はもはや現実味がない? 
その割に、スーパースパイがちょっとだけ死んですぐ甦ってきたり、超高層ビルを登ったり、飛行機にしがみついたまま離陸しちゃう現実味のなさは、比較的許容されてますよ。
トム・クルーズパワーともいうけど。

サヴィル・ロウの高級テイラー「キングスマン」。その裏の顔は国から独立した秘密諜報組織だった。
諜報員ハリーは、ロンドンで暮らす労働者階級の青年エグジーを、殉職したメンバーの欠員を埋める新たな候補生としてスカウトする。エグジーの父はかつてキングスマン候補生であり、活動中にハリーたちを助け命を落としていたのだった。
その頃、世界各国で科学者や著名人が行方不明になる事件が発生していた。調査に当たっていたキングスマンは、黒幕がアメリカのIT大富豪リッチモンド・ヴァレンタインであることを突き止める。環境保護活動に端を発し「人間こそ地球を蝕むウイルスだ」と結論づけたヴァレンタインは、慈善活動と称し、人類の大半を抹殺する計画を練っていた……。

武器が内蔵されたライターや靴、通信・記録機能付き眼鏡、店の奥に秘密のエレベーター、アーサー王と円卓の騎士を模したコードネーム、エコを盾に人類抹殺を目論む悪のボス、身体欠損があり義手義足が武器になっている悪の殺し屋、氷の地の巨大洞窟に悪の本拠地……
と、ロジャー・ムーア期以前(ピアース・ブロスナン期もちょっと入ってるけど)の007映画でみかけた要素が満載。つまり、現在のダニエル・クレイグ版ボンドのテイストではまずできないことが満載。
「昔の007は好きだ。最近のはシリアスすぎる」とセリフにまで出しているし。

しかし、007ものを始め往年のスパイ映画を彷彿させる設定をちりばめておきながら、「これはそういう映画じゃない」と言ってあっさりとこちらの期待を裏切る展開もしばしば。
単に観客を驚かせよう、懐古趣味とは一線を画そうというだけでなく、「007の監督やりたかった」「『ナポレオン・ソロ』のロバート・ヴォーンが本当のお父さんだったら良かった」という、マシュー・ヴォーンのスパイ映画にまつわるちょっとした闇が顔を出したようにも思える。

キングスマンは紳士である。そして英国紳士といえば、一般的に貴族階級(中産階級の上のほうが入ったり入らなかったり)である。そこに労働者階級のエグジーを入れるとなると、まず言葉のアクセントから教えなければならないんじゃないか? 礼儀作法や教養は? と思ってしまうのだが、そういう展開ではない。
というか、これはそういう映画じゃない。

ハリーがエグジー(およびその父親)をリクルートしていたのは、基本的に上流階級のみで構成されていたキングスマンの形態に危機感を覚えていたからだ。
多くのキングスマン候補生たちのエグジーに対する態度を見れば分かる通り、上流階級には下の階級を見下すところが多分にある。政府や国とのしがらみはなくとも、自らの優位性にしがみつきたいがために他の者を蹴落とすようでは、世界を救うことはできない。実際、その優越感がキングスマンにとんでもない事態を招くところでもあった。

ちなみに英国上流階級については、「親の資産と名前を傘に贅沢かつ甘やかされて育っているので、中身は大バカ野郎である」と、モンティ・パイソンに何度もバカにされている側面もある。(特に『第127回上流階級アホレース』コントに顕著である)

だから、ハリーはエグジーに紳士らしいスーツを与え、基本的なマナーはするが、言葉を矯正しようとはしない。候補生たちの教官であるマーリンも、筆記試験を課したり身体能力の強化訓練をさせたりはするが、エグジーその人を変えようとまではしない。
ハリーが語る通り、「Manners Maketh Man.(マナーが紳士を作る。マナーが人を作るとも訳したい)」。強い者には強気で弱い者には優しく、仲間を励まし仲間のためには決して口を割らず、機転に優れたエグジーの振る舞いは、彼自身を良い人間に、また良い紳士に作り上げていたのである。

嫌な上流階級に代表される「自分たちだけ良ければ庶民なんてどうでもいいスノッブな奴ら」への恨みつらみは、あるとき最高の形で昇華されることになる。しかもその瞬間のBGMがクラシックの「威風堂々」
さらに、「自分たちだけが正しくてあとの連中(特に社会的マイノリティ)なんて天罰が下ればいい」と思っている南部のプロテスタント白人まで、ついでのように爽快なほどメッタ殺しにされる。しかも土臭いサザンアメリカンロックたるレイナード・スキナード「フリーバード」がBGM。
趣味が良いとも意地悪ともいえる選曲である。

そうそう、エグジーvsブレード義足の殺し屋ガゼル(ダンサー出身のソフィア・ブテラ。ブルース・リー似で可愛い)の戦いと、並行して起きる世界中のカオスに、80年代ダンスチューンな「Give It Up」を流すセンスも忘れちゃいけない。
さすがマシュー・ヴォーン。『キック・アス』でヒットガールの薙刀殺戮BGMに「Banana Split」(ナッナッナーナーナナッナー♪)を選ぶ男。

2015年10月5日月曜日

ムカデ人間3

監獄ムカデでみんな(ムカデダンスを)踊ろうぜ。

ムカデ人間3('14)
監督:トム・シックス
出演:ディーター・ラーザー、ローレンス・ハーヴェイ

 

1の静かなる変態ワールドが気に入った人の中には、2の嫌悪とグロの極致を受け付けない人もいただろう。逆に1を物足りなく思えた人は、2のダイレクトな残酷描写が気に入っただろう。
だが、1と2どちらも好き、あるいはどちらかは好きというムカデファンでも、本作には辟易してしまうかもしれない。このシリーズは、前作でファンになったであろう観客をいとも簡単に切り捨てる。まったく仕方のない奴だよ、トム・シックスは! どうしてくれるんだよ。映画館でこんなに腹筋に響いて喉の奥がゴボゴボいうほど笑えたのはたぶん初めてだよ!! 
ああ、結局3作目にして最もハマったよ!! 監督の術中に!!

アメリカ、ジョージ・ブッシュ刑務所。所長のビル・ボスは悩みの種とストレスを抱えて今日もブチ切れていた。この刑務所は暴動発生率、職員の離職率、出所者の再犯率、さらにボスによる囚人虐待のせいで医療費も全米一。このままでは州知事にクビを言い渡されてしまう。
ヒステリーが激しくなるボスに、会計士のドワイト・バトラーが提案した。『ムカデ人間』と『ムカデ人間2』を参考に、「受刑者総ムカデ人間化計画」を立ち上げるのだ! これなら暴動も起きず、職員もケガせず、食費もカットできる、最高の懲罰になる。さらにドワイトはトム・シックス監督を呼び、「ムカデ人間は医学的に100%正しい」との意見を得る。
ただでさえアタマのタガが外れっぱなしなのに切羽詰まっているボスは、遂に囚人500人をつなげる一大手術にゴーサインを出した……!!

主役俳優コンビに、カツローこと北村昭博、セブリング先生ことビル・ハッチェンス、何気にシリーズ皆勤賞のピーター・ブランケンシュタイン、さらには監督まで本人役で出演。オールスタームカデ祭りだ!! ……と思いきや、見せ場の大半はディーター・ラーザーの過剰なブチ切れ独壇場という予想外の展開。
しかもコレ、1のようにマジメにやってるがゆえに笑えるのではなく、完全に笑いを狙いにいったコメディになっている。ボスという名の所長にバトラーという名の執事役って、ヴィランという名の悪役(エクスペンダブルズ2)以来のギャグネーミングだなぁ。

当初より出オチ感の高かったムカデ人間も、今回は500人つなぐという規模のこともあって、シリーズNo.1の出オチ扱い。観た瞬間「本当に本気でやりやがった……」とは思うが、国内・海外問わずポスターでビジュアルを公開してしまっているから、衝撃度は控えめだろう。
その代わりといっては何だが、1同様結合部はバンドで隠されているものの、手術で口とケツが結び付けられる決定的瞬間はしっかり収められているのだ! それを観て何%の人が喜ぶのかは置いといて。

まぁ、ある意味もっとヒドいのは、ボスがさらなる懲罰として作った××××人間。手術が大がかりかつ残酷な割に、ほとんど引きの画でしか映してもらえないうえ、本当のところ俳優さんたちがどういう姿勢でいるのか観客にバレバレなんだもの。それでさっさと次行っちゃうんだもの。これぞ出オチの極みにして(役者的に)懲罰の極み。
ちなみに、この手術を観ていた本人役のトム・シックス監督、ボスの横暴ぶりに「これはマズいよ!」とコメントし、盛大にゲ○まで吐いていたが……
お前がすべての主犯格のクセして何常人ぶってるんだよ(笑)!!! 

1の冷ややかな色彩の世界=ハイター博士、2の暗く湿っぽいモノクロ世界=マーティン、とくれば、本作の喧騒と暴力にまみれた灼熱の世界はビル・ボスだ! 
1作目ではクールな知的変態だったディーター・ラーザーが、キレる、吼える、虐待する、セクハラする、そしてまたキレるという、暑苦しくやかましいバカ暴君に嬉々として変貌を遂げている。

ハイター博士やマーティンもなかなかにアタマのネジがぶっ飛んだ方々だが、2人もビル・ボスにはドン引きしそう。父親の釈放をネタに秘書のデイジー(ポルノ女優ブリー・オルソン。彼女の幻の場外武勇伝については北村昭博氏のコラムやインタビューを読んでいただきたい)を性欲処理に利用し、精力剤としてアフリカ産干しクリトリスを食し、キレてはその辺で銃を乱射する。逆らう囚人たちに対しては、腕を折るわ、熱湯攻めにするわ、麻酔なし去勢手術を施すわで、挙句取ったタマをフライにして食ってしまう。
しかし彼の実態は、囚人からの報復を悪夢に見るほど恐れている、声のデカい小心者なのである。

もはやハイター博士に輪をかけて可愛げも同情の余地もない男のはずなのだが……それでも不思議とディーターは可愛らしくて仕方ない!!!! 過剰演技で見せる暴走劇もさることながら、机の下に隠れたり、ショットガンをお守りのように抱きしめたり、我先に逃げたりする小心者ぶりまで可愛い。完成したムカデ人間を前に踊りながら歩き出す姿も可愛い。
最低の人間を魅力的に映すためには、演者自身の多大なる魅力がキモ……とは重ね重ね言っているが、ディーターのチャームは思いのほか強大だった。

しかも、今度のディーターは笑いの暴走列車である。ニタニタ顔やらふくれっ面やら絶頂顔やらの顔芸、ブチ切れ芸、ヤバい事態から逃げようとするリアクション芸まで、運悪くドツボにハマってしまった人間には「もう勘弁してくれ!!」と言いたくなるほどお笑いトラップのたたみかけである。
まさに「絶対に笑ってはいけないジョージ・ブッシュ刑務所」。自分は何回ケツバットを喰らうことになるのやら。そういえば、「オレのリーダーシップは原子爆弾だ! 100メガトン級だ!」とわめくボスの背後で、ブリー・オルソンが不自然な前傾体勢になってましたが、アレたぶん本気で笑っちゃってましたよね……?



その点、ドワイトは冷静なほうだし、礼儀正しいし、デイジーに乱暴な扱いをしないし、ボスに歯止めをかけようとしてるし、まだマトモだよな。デイジーもドワイトの近くにいたほうがマシなんじゃないかな……って、見事にダマされてましたよ!!

ボスが戯画化された暴君なら、ドワイトは妙にリアリティのあるサイコである。声高にヤバいことをわめく暴力装置であからさまに危険人物のボスに対し、ドワイトは接しやすくノーマルな会話が可能。ボスの暴走に対するツッコミ役でもある。

ついでにいえば、物言わずとも全身から孤独と狂気を発していたマーティンに対し、今回のローレンスはお喋りで愛嬌たっぷりの姿を見せてくれる。だから、うっかりするとボスの異常性を測るための基準として置かれた「普通の人」に映ってしまう。


しかし、そもそも非人道の極みたる受刑者ムカデ化計画の発案者はドワイトである。「あんなくだらんB級映画を!」と取り合いもしなかったボスを、監督呼び寄せてまで説得したのもドワイト。デイジーにだって密かに好意を寄せているのに、彼女がダッチワイフ以下の扱いを受けていてもボスを止めようとはしていない。囚人虐待にストップをかけるのだって、理由は「また医療費がかさむから」である。

ドワイトは確かにボスを恐れているが、崇拝してもいるので、基本的にボスのやることなすことを否定してくれないのだ。

明らかな狂人の影にいて、一見普通の人の態度をとっているが、その実一般的な倫理観が抜け落ちている。幼児性とそれゆえの残酷さを持つマーティンと対比してみると、また興味深い。

以下、ネタバレ記述あり





三部作中最も笑いの要素が強い作品ではあるが、救いのなさも前2作に劣らない。

搾取される側の人間は最後まで搾取され続け、救いの手も差し伸べられない。国歌響き渡り星条旗がはためく下では、全裸の狂人が勝利の雄叫びを上げ続けるのだ。

これがアメリカだ。これが世界の不条理だ。ありがとうトム・シックス。
ありがとうムカデ!!!

2015年9月29日火曜日

ムカデ人間2

無邪気な悪魔におもちゃが12人。

ムカデ人間2('12)
監督:トム・シックス
出演:ローレンス・ハーヴェイ、アシュリン・イェニー



映画に影響を受けて何かやらかしたことは数知れず。
『リーサル・ウエポン』のメル・ギブソンのシャツの着こなしを(可能な限り)真似したり、『ザ・プロデューサー』カメオ出演のベニチオ・デル・トロの歩き方を真似したり、『ショコラ』のホットチョコレートにチリペッパーを入れる飲み方を自己流さじ加減で試した結果喉をやられたり。
それを「若気の至り」で片づけられればいいのだが、ここ数年は『ワールズ・エンド』を観てビールハシゴ飲みをしたり(そしてつまみのフリッターに食あたりしてリバース)、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を観てラジカセ引っ張り出して「マイ最強Mixテープ」を作ってしまったりと、成長してますますやらかしの度合が大きくなっちゃっているのが問題。

……まぁさすがにムカデは……いやもしやる気が出たらスクラップブックぐらいはつ・く・っ・て・み・た・い気もしますし、破かれたらスゲェ怒る気もしますよ。

ロンドンの地下駐車場で警備員の仕事をしている男・マーティン。かつて父親からは性的虐待を受け、一緒に暮らしている母親からは「居なければよかった」ように扱われ、精神科医からは下心を持って見られ、駐車場利用客からもバカにされ続けている。
そんなマーティンが愛してやまないのが『ムカデ人間』。DVDを繰り返し観るだけでなく、母に嫌がられながらもムカデを飼い、スクラップブックも作る入れ込みよう。その愛着は「自分もムカデ人間を作ってみたい」と思うほどに膨れ上がっていた。
マーティンは野望の実現にむけ、駐車場の客や近所の男ら12人を次々と貸倉庫に拉致監禁。さらに、『ムカデ人間』にジェニー役で出演していたアシュリン・イェニーまで、自らのムカデの先頭に配すべく監禁。医学知識も技術も道具もなく、大工道具のみを手に、マーティンは遂にムカデ人間製作に乗り出した……!!

「地獄絵図」「不快度MAX」とはこのことだ!(以下その手の話が続くので注意)

「口とケツをくっつける」「前の人のウ○コが次の人の口へ」という『ムカデ人間』では直接描かなかった生理的嫌悪描写。あるいは、膝の靭帯を切り歯を抜くという、比較的マイルドに見せるだけに終わらせていた手術プロセス。
今回監督は、そうしたエグいパートをこれでもかというほど直接的に見せ、生理的嫌悪も痛覚も手加減なしの方向へ舵を切った。

医者じゃないから当然麻酔なし、必要とあらばバールで殴って気絶させる。ハンマーやらナイフやらで人体損壊してムカデにしようとしたものの、どうにもならずショックや失血で死んでしまう被害者も出てくる。結局、やけになって接着はホチキスとダクトテープでバチバチベリベリ。
現代医療に当たり前に存在する、麻酔や縫合の技術がいかにありがたいかが嫌というほど分かる。前回、その医療技術をフル活用して暴走しちゃった医者がいたけどね! 

それからマーティンよ、麻酔は持ってないのに下剤は持っているのな。だからウ○コのプロセスもどうにもならなくなったらとりあえず下剤に頼るのな。だからそちらの意味でも地獄絵図が展開してしまうのな……!!

そもそも、ムカデ素材の誘拐も、とりあえず拳銃で脚のどこかを撃つ→逃げられなくなったところをバールでガーンと気絶!! という痛さ全開のプロセス。半死半生で調達するわけだが、下手したらその時点で素材が死ぬぞ。そんなん見たらハイター博士も気絶するぞ。違う意味で。

青と白を基調にした冷ややかな色調だった前作に対し、今作はモノクロ。しかもロンドンは常に雨模様なので、暗さと湿っぽさが格段に上がる。
前作の色調がハイター博士を表しているなら、今作の陰鬱なモノクロの世界は、誰からも愛されず己の殻にこもってムカデを愛する男、マーティンのことである。

ただし、この映画はすべてがモノクロというわけではない。たった1つだけ、着色されているものがある。それを観てしまったら……思わずにはいられない。「監督は鬼か!?」(ちなみに、トム・シックス監督は変態的な世界を描くが、彼なりの計算があってのことだしそこに狂気は見えないので、変態とは思っていない)

前作がハイター博士なら、本作はマーティンの独壇場。ローレンス・ハーヴェイの強烈すぎるビジュアル一発で、「こいつ何者だ!?」と観客の好奇心をわしづかみにしてしまう。
チビ・デブ・ハゲの三拍子、しかも腹の肉が下半身にまで垂れているので、パンツを穿いているのかいないのか判別つかないほど。汗っかきで常に目がギョロギョロ。何よりも、作中で一言も意味のある言葉を発さない。意思表示はすべて表情と行動と、「エハハハ」「ウェェェェ」「ブーーー」という言葉になっていない言葉。
それでもこちらには彼が何を言わんとしているのかおおむね伝わるのだが、逆にマーティンに周りの人間の言葉を伝えきることはできない。どれだけ必死に「ムカデ人間はフィクションだ! できるわけがない!」と訴えても、彼には通じない。ハイター博士とはまたちがったディスコミュニケーションの恐ろしさである。

マーティンにとって『ムカデ人間』は限りなくリアルで、愛すべきもので、ハイター博士はヒーローである。何かとウ○コを漏らす、思うようにいかなくて泣きじゃくると、まるで子どものようなメンタリティのマーティンが、博士の真似事をして大惨事を招くのは、子どもがヒーローごっこをしてうっかり物を壊したり大ケガをすることに通じているのではないだろうか。
だからなのかね。今までの地獄絵図と、これからの地獄絵図を顧みても、ひとまずムカデ人間を完成させて血みどろのまま小躍りしてはしゃぐマーティンを観ると、「うんうん、良かったね!」と思ってしまうのは……。


以下、ネタバレ記述あり




ところで、マーティンの乱雑な犯行はどうして誰にもバレないのか、なぜこうも都合よく進むのか、と思っていたら……

最後の最後にムカデ人間製作はマーティンの夢/妄想であったことが判明する。

夢オチかよ、と拍子抜けするところもあれば、あれが現実じゃなくて良かった! と安堵するところもあり。
そしてこれが、誰からも愛されず理解もされない大きな子どもの、世の中に対するささやかな反逆(頭の中のことだからね。現実ならささやかどころじゃない)だったと思うと、これほどまでの地獄ですら、どこか哀愁を帯びてくるのだった。

2015年9月26日土曜日

ムカデ人間

博士とムカデのセオリー。

ムカデ人間('11)
監督:トム・シックス
出演:ディーター・ラーザー、北村昭博




中学のころ、クラスの男子/女子が全員足を結んで前の人の肩を持って縦に並んで走る運動会競技「ムカデ競争」。私はそれのちょうど真ん中あたりで走ってたのだが、練習ランニング中うっかり転んだ。すると後続の人がつられて転ぶので膝下に圧がかかり、また先頭の人が異変に気付くまで1~2秒のタイムラグが生じる。そのため、ただの擦り傷がズル剥け傷に発展。
だが擦り傷よりもイタイのは、「チームワークを乱しやがって」という空気であった。

……そんなイタイ話を思い出したのは、ハイター博士の「真ん中はきついぞ」という一言があったからですよ!!

シャム双生児の分離手術で数々の成功を収めてきたヨーゼフ・ハイター博士には、密かな夢があった。人間を分離するのはもう飽きた。今度は人間をつなげるのだ。それも、口と肛門をつなげて消化器官を一体化し、前の人間が食したものを排泄と同時に後続の人間が食すシステム。題して「ムカデ人間」だ! 
タイヤのパンクで助けを求めてきたアメリカ人観光客リンジーとジェニー、よく怒鳴るが英語もドイツ語も通じない日本人ヤクザのカツローを捕獲した博士は、いよいよ夢の実現に向けて一歩を踏み出す……!!


「月からナチスが来た!」(アイアン・スカイ)みたいなアイディア一発勝負映画にはよく出くわすが、「人間の口と肛門つないでムカデ人間!」ほどくだらなくて下ネタな一発ネタは珍しい。しかもその一発勝負に勝っちゃってるんだから、世の中何が起きるか分からない。

よりにもよって口とケツがつながってるとか、要するに前の人のウ○コを自動的に飲まなきゃならないとか、生理的嫌悪要素は満載なのだが、意外にも直接的描写は避けられている。それどころか冷ややかな照明と色彩で、大変品のある変態ワールドになっているのだ。ハイター博士が冷ややかで気品ある変態であることに起因しているのかもしれないが。

ここまで悲惨な目に遭っていながら、もっと悲惨なことにはっきり言ってムカデ人間自体は、ほぼ出オチ扱いである。
ただ、唯一喋ることができる先頭のカツローと博士との言語/思考のディスコミュニケーションは、限りなくブラックなコメディパートとして、博士とムカデの(不)愉快な日常ストーリーを牽引してくれる。北村昭博さんが監督にアイディアを出してくれたおかげで、海外映画の中で日本人が聞いていて違和感ゼロで生きた日本語になっているし、「火事場のクソ力じゃあぁぁぁ!!!」「あっ……う、ウ○コ……」と日本人のほうがニュアンスを笑えそうなセリフも多々あり。

そうそう、一応古典ホラー的な教訓めいたところもある。「知らない場所で近道をしてはいけない」とか「タイヤ交換は覚えておくべし」とか「基本的に野グ○はいかんよ」とか。
しかしそうは言っても、この場合リンジーとジェニーが取るべき最良手段は、「あの車越しに絡んできたエロ親父を殴り倒して車を強奪する」だったんじゃないかと思ってしまうんだけどね。

そして何より、本作の中心にいるハイター博士。『武器人間』のフランケンシュタイン博士や、『死霊のしたたり』のハーバート・ウェストらホラー映画界のマッドサイエンティストの仲間入りを果たしたわけだが、ハイター博士はその中でもトップクラスに可愛いのである!! (※個人の価値観に基づく)

最初に作ったムカデ犬の在りし日の写真を見ながら涙ぐむ姿の登場シーンに始まり、絶妙にざっくりしたイラストで犠牲者の皆さんに「ムカデ人間手術プロセス」を得意気にプレゼンする姿、ムカデ人間が思うように動いてくれなくてヒステリー起こす姿、脚にプロテクター付けて「噛みついてみろ!」と挑発する大人げない姿、訪ねてきた刑事に対して挙動不審すぎて色々ごまかしきれてない姿に、いちいち愛嬌があって憎めない。
いかにも緻密な計画を持っていそうなのに、ムカデ素材の捕獲作業や、ムカデ人間の栄養補給、刑事のあしらい方はなぜか穴だらけというツッコミどころすら、「ちょっと(いやかなり)抜けてるところが可愛い」に転じてしまう。

なぜそう思ってしまうのかと考えると、やはりディーター・ラーザー自身のチャームが原因なのだろうか。また、ユーモアのさじ加減が快・不快ギリギリのバランスを保っているからかもしれない(ギリギリどころかアウトだという人も多いだろうが)。
後にチェックしてみたところ、当時御年70歳。ロバート・イングランドやランス・ヘンリクセンに近い齢で、一見彼らより遥かにギスギスした風貌ながら、彼らに勝るとも劣らぬ可愛らしさを放出するとは……知性とユーモアの力は絶大だなぁ。

中でもハイライトは、とうとう念願のムカデ人間完成時。写真を撮りまくり、鏡を差し出して絶対に見たくないであろう己の変わり果てた姿を見せつけ、絶望のあまり泣き出す3人をよそに一人鏡にキスして歓喜の涙を流している。ムカデ人間の絶望を忘れて、「うんうん、良かったね! 良かったね博士!」と力いっぱい博士に肩入れしてしまう。
思えば、世界を変える級の野望があるわけでもなく、人間嫌いゆえに共犯者がいるわけでもない孤軍奮闘生活の成果がようやく出たんだもの、そりゃ泣いちゃうよな。

まぁ、博士に肩入れする決定的なきっかけになったのは、一人脱走したリンジーに「マトモじゃないわ、変態よ!」と言われて「ああ私は変態だ!!」と堂々断言した瞬間なのだが。こういう正々堂々とした態度は見習いたいものですね………………いやきっと勘違いでしょうけどね。

2015年9月15日火曜日

ABC・オブ・デス2

今年もよく死んだ!!

ABC・オブ・デス2('14)
監督:エヴァン・カッツ、ジュリアン・バラット他
出演:



「死」をテーマにした5分以内26の短編……という名目ながら、その実それぞれの監督たちの趣味の悪さ(転じて良さ)および変態度が世界中のホラーファンに測られるという意味でも、えげつなく恐ろしい企画。

今年は全体的に趣味が良く変態度は控えめ……と映ってしまうのは、前回の『ABC・オブ・デス』にウ○コとかゲ○ネタが多く、しかも我らが日本勢に井口昇(このまま世界が終わるなら憧れの女教師のおならで窒息したい美少女)と西村喜廣(人類絶滅はアメリカの○○○と日本の×××から始まるのだ)というスーパー変態がいたからか。また、「『ABC・オブ・デス』の企画に悩む監督自身」というメタネタも、前回「Q」と「W」でダブリが生じてしまったせいか今回は見受けられない。

以下、前回同様タイトルが極私的お気に入り、タイトルが極私的まずまずの1本である。

A=Amateur(アマチュア)

仕事の依頼が舞い込んできた殺し屋。潜入と殺害のシミュレーションは完璧。あとは実行に移すのみ。ところが彼は……。
物理的にも精神的にも痛々しい殺し屋さんの失態が、不器用人間には身につまされるだけにいっそうイタく映る。それだけにあのバカみたいなラストが痛快ですらある。今回もツカミの一本は優秀だった。

B=Badger(アナグマ)

地域の環境汚染により死滅してしまったアナグマについてのドキュメンタリーを撮るクルーとイヤミな動物学者。だがどうやらアナグマは死滅したのではなかったらしく……。モンティ・パイソンを彷彿とさせるチープなブラックコメディ。

C=Capital Punishment(死刑)

少女殺害の容疑者と、彼の死刑を求める村民たち。無実を訴える容疑者は警察の手に委ねられる……のではなく、村民たちの手によって断頭されることに。
中学の社会の授業で、「ギロチン以前は斧で首を落としていたが、死刑執行人の手際が悪いと一撃で死ねず大変なことになった」と習ったものだが、本エピソードがまさにそれ。何より悲惨なのは、彼は本来「容疑者」止まりにすぎなかったこと。ということは、その因果が向かう先は……

D=Deloused(駆除)

謎の集団に殺された男は、踏みつぶされた虫の力を借りて甦り、復讐を果たして虫に借りを返すが……。『ヘルレイザー』meetsクローネンバーグ(虫が尻から捕食したり意思を伝えたりするし)のような、粘着質で肉々しくてエグいクレイアニメ。

E=Equilibrium(平衡)

流れ着いた無人島で気ままに暮らしている男2人。ある日、自分たちと同じく漂着した美女を助け、一緒に暮らし始める。しかし、男2人に女1人は釣り合いがとれず……。
重要なのはバランスだって『テキサス・チェーンソー・ビギニング』のホイト叔父さんも言ってましたよね。どちらをとるかは人によるだろうけど。
ちなみに監督は『ゾンビ革命 フアン・オブ・ザ・デッド』のアレハンドロ・ブルゲス。アホなほど能天気な音楽もイイ。

F=Falling(落下)

イスラエルの女兵士がパラシュート落下したのはパレスチナ。そこへ少年兵が通りかかり、彼女にライフルを向ける。この顛末の痛々しさと虚しさは、監督がイスラエル出身ゆえか。

G=Grandad(祖父)

口の悪いジイさんとアタマ悪そうな孫のいがみ合いと殺人。おめでとうジム・ホスキング監督。今回の「ABC・オブ・ド変態」枠は君だ。何だあのジジイは。

H=Head Games(駆け引き)

男女の駆け引きを、文字通りアタマの戦いとしてシュールな線画で描く。しかしこれこそ「D」みたいなグロテスクアニメで作ってほしかったな。

I=Invincible(無敵)

財産目当てにあらゆる手を使って母親を殺害しようと試みる兄弟たち。だが、この老婆は訳あって何をやっても死なないのだ! 最強(最凶)ババアってフィクションで観ている分には痛快だなぁ! 
ちなみに監督はシンガポール出身。アジアンホラーも勢いづいているのである。 

J=Jesus(ジーザス)

ゲイの息子を無理やり「矯正」させようとする狂信的な父親と神父。すると息子の両手と頭に聖痕が現れ、さらに……。
ゲイは罪で、ゲイ殺しは罪に問わんのか! と、散々培われてきたキリスト教原理主義に対するイライラがまたしても募ります。

K=Knell(凶兆)

マンションの自室でペディキュアを塗っていた女性は、隣のマンションの上空に黒い球形の影が漂っているのを目撃する。ほどなくして、マンションの住民たちは殺し合いを始める。そして異変は彼女の住まいにも押し寄せてくる。
何かが迫ってきているのだが何だか分からない不安感、ペディキュアの赤黒、経血の赤黒、謎の影の赤黒が入り混じるおぞましさと美しさ。繊細なラインの上に立つ一本だった。

L=Legacy(遺物)

ウビニランドなるどこぞの未開の地。王妃の計略で生贄に捧げられそうになった王子は、死刑執行人の計らいで命を助けられる。だが王子の怒りにより、ウビニには怪物が現れ、人々を襲いだした。
この怪物が着ぐるみ(厳密にはあまりくるんでない)丸出しで何か可愛いのだよ!


M=Masticate(かみつき魔)

今回の一般公募枠。完全にイッちゃった目で走ってくるパンイチのおっさんが、通行人に噛みついて射殺されるまでをスローモーションで描く。このネタを完全なものにしているのは、最後の最後にオマケ程度に挟まれる「34分前の出来事」ってのがオカシイ。

N=Nexus(連鎖)

ハロウィンの日に起きたあまりにも不幸な惨劇。あと少し早ければ、あのときこうでなければ……という仮定はいくらでもできるが、どう考えても99%はタクシー運転手が悪い。
ところでこの監督ラリー・フェッセンデンはホラーにちょこちょこ顔を出す俳優でもある。彼が第一犠牲者を演じた『サプライズ』の殺人鬼が被っているヒツジマスクが出てくるのはそのせい?

O=Ochlocracy(Mob Rule)(愚民政治)

日本代表の1人、『へんげ』の大畑創監督。ゾンビの自我を戻すワクチンが開発されたなら、ゾンビハザードピーク時にゾンビを殺しまくった人間は殺人罪に問われるのだろうか? という深いような実はそんなことはないような裁判劇。どう見てもアタマ悪そうなゾンビ裁判官やゾンビ弁護士、証人も首だけだったりして、バカバカしくて救いようがなくておかしい。
ところで、2015年現在の国会答弁と照らし合わせて考えてみると、何か一気に笑えないムードになるね。

P=P-P-P-P-SCARY! (ピ ピ PS 怖い!)

残念ながら、今年のワースト枠。吃音のある脱走囚人3人組が遭遇する不条理な恐怖……といったところだが、デヴィッド・リンチを意識して思いっきりスベっているようだ。
なお、囚人の一人ポピーがPで始まる単語でなくとも「P-P-P-P」と詰まってしまう癖があるからこのタイトルになったのではと踏んでいるが、それにしたって設定活かされてないし、タイトルとのつながりも薄いからなぁ。
唯一収獲といえば、あの謎のおっさんが笑うとリーランド・パーマーことレイ・ワイズに似てるってこと。

Q=Questionnaire(アンケート)

路上でアンケート(というよりかなり頭をひねるクイズ)に答えている男。果たしてこの調査の目的は……と言いつつアンケートの様子と同時進行で、調査の結果何が起こるかも描いているのだが。オチとしてはちと弱いので、むしろこのオチの後が観たい。

R=Roulette(ルーレット)

死のルーレットといえばロシアン・ルーレット。当然たった1つの弾に当たった人が終わりだが、5つのハズレを引いて生き延びた人が幸運とは限らないことだってある。
何が興味深いって、監督メルヴィン・クレンがドイツ人であり、このシチュエーションがナチスから隠れるユダヤ人を彷彿させること。

S=Split(破局)

電話で話す夫婦。そのとき妻のもとに侵入者が……。死による夫婦の別離(Split)と、もう一つの夫婦の破局(Split)、そしてデ・パルマの系譜ともいえる画面の分割(Split)という鮮やかなトリプルミーニング。
そういえば、前作の「N=Nuptial」でも嫉妬に狂った人間の恐ろしさが描かれてましたね。あれはブラックな笑いだったけど。

T=Torture Porn(残虐ポルノ)

新人女優を下心満載で品定めするつもりのポルノスタッフたちが血の惨劇に。
もしこれが無名の監督の作品だったら「まあまあ面白いじゃん」ぐらいの評価だっただろうが、『アメリカン・メアリー』(原題。邦題の『アメリカン・ドクターX』とジャケデザインには納得いかん)で華麗なる人体改造と冷ややかな空気を見せてくれたソスカ姉妹の作品となると……どうしても「思ったよりおとなしい」という感想になってしまうなぁ。
ちなみにエンドクレジット後、最近悪趣味ホラー界に彗星のごとく現れた、強烈なルックスで勝利を収めたあのお方が出演してたりします。しかも、自身の出演作T着用で。

U=Utopia(ユートピア)

ブランドの広告のようにスタイリッシュで、美男美女だらけの世界。そこではブサイクはどうなるかというと……。『CUBE』のヴィンチェンゾ・ナタリらしい不条理ワールドだが、こうなると抹消され続けてきたブサイクの逆襲劇が観たくて仕方なくなってしまう。

V=Vacation(バカンス)

悪友とのバカンス先(タイ?)で、本国の彼女とSkype通話をする男。実は昨晩、売春婦の母娘と酒・ドラッグ・セックスとホラー映画死亡フラグ三種の神器を楽しんでいたのだった。バカ騒ぎが彼女にバレて一波乱かと思いきや、もっと悲惨な事態がすぐそこに待ち受けていた……。
スラッシャーミュージカル『絶叫のオペラ座へようこそ』のジェローム・セイブルが監督だが、歌も極彩色もなしで手堅いPOVもの。Skypeも立派な低予算映画手法となったものだ。

W=Wish(願い)

カシオ王子と魔王ゾーブが戦うファンタジーワールド「ゾーブ」のフィギュアで遊びながら、「王子を助けに行きたいな」と口にした少年2人は、「ゾーブ」の世界に吸い込まれてしまう。そこで2人が目にしたのは、ゾーブ軍による虐殺と拷問。しかも、ヒーロー側のキャラクターとて、彼らを助けてくれるわけではないのだった。
「アストロン6」のスティーヴン・コスタンスキ監督だけあって、手作り感溢れるチープ&グロテスクな世界は、まさに『マンボーグ』の系譜。ゾーブの城の拷問人には「T」のソスカ姉妹、捕まった兵士の中にはブランドン・クローネンバーグもいるぞ!

X=Xylophone(木琴)

レコードをかける祖母の横で、木琴を叩き続ける幼い少女。祖母は木琴の騒音に我慢ならなかったのか、孫の若さと可愛らしさに嫉妬したのか。そして、帰宅した両親が目にしたものは……。
去年の「X=XXL」に続き、またも「X」枠をフランスが獲得。これまた去年に続き、悪趣味でむごくて後味悪い結末にもかかわらず、ほんのスパイス程度に添えられた皮肉によって、洗練された良質の恐怖に昇華されている。恐るべしフレンチホラー、恐るべしチーム・屋敷女(ジュリアン・モーリー&アレクサンドル・バスティロ監督とベアトリス・ダル)。

Y=Youth(若さ)

これも日本代表・梅沢壮一監督作。だらしなく、自分に無関心な母と義父のもとで育ち、自らを傷つけてきた女子高生が、遂に反旗を翻す瞬間。
この作品に関しては突き進む先が「死」ではなく「生」。生きていくため、憎悪のきっかけになった思い出を使って、イヤな母と義父を頭の中で殺していく。先の「W」とはまた一味ちがった、チープ&グロテスクなジャパンの特撮です。

Z=Zygote(受精卵)

出産間近の身重の妻を置いて、遠出してしまう夫。自分が戻るまで子を産むなとの言いつけ通り、妻は産道を閉じる薬=木の根をかじって帰りを待っていた。それから13年。夫はまだ戻らず、妻はまだ子を産まず、子どもは母の胎内で大きく育っていた……。
何と言っても、終盤のゴキボキグシャッペッという、クローネンバーグかクライヴ・バーカーかというぐらいのトランスフォーム(いや厳密にはフォームは変わってない)が見どころです。そしてインモラルに突っ走りそうなオチ。


今年は半分以上が割と気に入ってる枠となったが、他の人の意見・感想を見てみると、私が好む「A」や「O」はイマイチだったり、まあまあかなぐらいに思っていた「K」が一番好評だったり。どれを好むかによって、観客の映画の趣味や変態度もだいたい分かってしまう、やはり恐ろしいシステムだなぁ。

前述の通り、比較的趣味のいい死に様(?)だった死のABC第2弾。反動で今度の『ABC・オブ・デス3』は変態だらけになってたりするかもしれないが、それはそれで恐ろしくも楽しみである。
あと、監督に名前が挙がっていながら結局出なかった、園子温やアレックス・デ・ラ・イグレシアにも是非参加していただきたいなぁ。

↓「Y」で梅沢監督が使った特撮道具、キネカ大森に展示されてました。
どうやって使われてるか気になったら観てほしいよ。

2015年8月26日水曜日

毛皮のヴィーナス

至高の女は、恐ろしい。

毛皮のヴィーナス('14)
監督:ロマン・ポランスキー
出演:エマニュエル・セニエ、マチュー・アマルリック



極私的ボンドガールベスト然り、ここ数年やってる映画ベストガール然り、華と毒気と強さを備えた女性キャラが大好き傾向の自分。
しかし、こんな女性を「いいなぁ」なんてうっとり観てられるのは、彼女らがスクリーンの中の存在だから。だって、ベストボンドガールはゼニア・オナトップにメイ・デイにエレクトラ・キング、去年のベストガールもアルテミシアにマザー・ロシアにハンマーガール……
このメンバーが目の前に現れたら、そりゃ憧れたり見とれたりするだろうけど、最後には死ぬ気しかしなくなるよ。

パリの劇場。演出家トマは自身の脚色作『毛皮のヴィーナス』のヒロインオーディションを終えるも、どの女優にも満足できず苛立っているところだった。
そこへ一人の女がやってくる。名前はワンダ。奇しくも『毛皮のヴィーナス』のヒロインと同じ名前である。大幅に遅刻してきたうえ、がさつで教養もなさそうなワンダをトマは適当に追い返そうとするが、彼女は強引にオーディションを始める。
しぶしぶ相手役を務めたトマだったが、ワンダは先ほどとは別人のように淑女そのものの立ち振る舞いで、セリフも完璧。彼女との芝居に没頭していくトマは、役柄に倣うように彼女に服従し、支配されていく。

ポランスキーについては『ゴーストライター』で、「自身の人生が映画よりも劇的なせいか、どんな切羽詰まった状況を描いてもどこか平熱」と書いた。
だが本作では、登場人物はワンダとトマの二人だけで、舞台は劇場の中だけという大幅な制約の中、ずっと劇的で情熱的だった。

「どこにいるのか分からなくなってきた」とは作中のトマの一言だが、観ているこっちだって自分がどこにいるのか分からなくなる。ワンダとトマのやり取りと、劇中作のワンダとクシェムスキーのやり取りには当初線引きがあったはずなのだが、次第にその境界線があやふやになっていき、今喋っているのは女優のワンダなのか役柄のワンダなのか分からなくなってくるのだ。

が、その「分からない」というところが、話をややこしくする以上に魅力的なのである。観ている側も、トマあるいはクシェムスキーと同じくワンダにのめり込み、ワンダに振り回されるのを楽しんでいる。これがマゾッホ的感覚というやつなのだろうか……
とも思うが、実は「傲慢にして魅力的な女と、彼女に恍惚として従う男」という構図すら、安直なSM発想として足蹴にされる運命にある。

もう少し下世話な観方をすると、本作がいつになく劇的で情熱的なのは、エマニュエル・セニエの夫たるポランスキー監督自身こそ、一番ワンダに振り回されるのを楽しんでいるからじゃないだろうな?

そして、ワンダの魅力には、怖い代償もついてくる。そもそもなぜワンダが魅力的なのかといえば、淑女と女王様、貞節と淫靡、教養と無知、繊細とガサツさ、男が女に求める両極端な要素を併せ持っているうえに、使い分けが巧みだからである。付け加えるなら、自分のドツボである「華と毒気と強さ」もある。
しかし、すべての要素を持ち自在に操れる女はまずなかなかいない。そんな至高の女がいるとすればそれは……。

結論をたぐりよせるころには、トマも観客も、皆毛皮のヴィーナスに突き放され捨てて行かれる。それは、無意識のうちに醸し出している女性蔑視への、あるいは単純なSM概念への逆襲のようでもある。
女性と結婚にまつわる普遍的な不安と恐怖をあぶり出したのが『ゴーン・ガール』だとたら、本作は理想の女性像を至高の域に高めた結果、とんでもなく恐ろしいものがあぶり出される映画だ。
自分にとってはスクリーン越しの出来事だったから、腰が砕けた心地になった程度で済んだのかもなぁ。