2016年7月24日日曜日

イット・フォローズ

それはいつかやってくる。

イット・フォローズ('15)
監督・デヴィッド・ロバート・ミッチェル
出演:マイカ・モンロー、リリー・セペ



だいたいにおいてオタク性と小市民性がまるっと反映された夢しか見てない自分が昔に見た、数少ない象徴的な夢が、この映画が描いてきたものに対するヒントかもしれない。

夢が進むにつれて私は小学生から高校生までに変わっているのだが、その時々で『ファニーゲーム』に出てくるパウルとペーターに似た白服の2人がついてきているのに気づく。
気づいた時点で逃げればしばらく現れないが、時間が経過するとまた現れる。
やがて、何故か海外の巨大スーパーのような場所にて、自分以外の人々にも自分のとは異なる「白い服の2人組」がついてきていることが分かる。みんなそいつらに立ち向かっていくのだが、倒すことは誰にもできないのであった。

19歳のジェイはボーイフレンドのヒューとデートを楽しんでいた。ある夜、車の中でセックスをしたあと、ヒューはジェイに麻酔薬をかがせて意識を失わせる。気が付くと廃ビルの中で車いすに縛り付けられていたジェイに、ヒューは説明した。
「君にセックスを通じてある呪いをうつした。あるものが君のあとを追ってくる。それはゆっくり歩いてくるが、確実に君のもとにやってくる。それに追いつかれたら死ぬ。君がそれに殺されたら、呪いは俺に返ってくる。だから、誰かと早くセックスして、呪いをうつせ」
その後、車で彼女を自宅の前に放り出すと、ヒューは逃げるように走り去って行方をくらませた。
それからしばらくして、大学の授業中に、ジェイは中庭から病院のガウンを着た老婆がこちらに近づいてくるのを目にする。声をかけてみても反応はなく、ただただこちらへ向かって歩いてくる。しかも、他の人には老婆の姿が見えていない。恐怖にかられたジェイは、妹ケリーや幼なじみのポールに助けを求める。

ゾンビに走ってこられたら逃げ切れる気がしない鈍足型なので、個人的にはできればモンスターには来るなら徒歩で来ていただきたい派。
しかし、本作の「イット=それ」は徒歩とはいえ、ついてこられたらとんでもなく厄介である。

ゾンビなら頭を撃てば倒せる。ジェイソンやマイケル・マイヤーズのような殺人鬼でも物理攻撃は効くし、上手くやれば注意を逸らすこともできる。
しかし、「それ」は頭を撃っても死なないし、除霊ができるわけでもない。何かこの世に未練や怨念を抱いたものでは……といったバックグラウンドも不明。とにかく対処法が分からないのだ。
仮に誰かとセックスすることで呪いをうつしても、その相手ががまた他の誰かとセックスしても、その相手が死んでいけばいずれ自分に呪いが帰ってくる。一時的に回避はできても、完全に消し去ることはできないのである。

さらに、「それ」には明確な形がない。あるときは老婆、あるときは小便を漏らし続ける下着姿の女。
明らかに不審な姿ならともかく、身近なよく知っている人間の姿をしていることさえあると、もはや誰が「それ」なのか分からない。「それ」は喋らないこと、呪いに感染していない人間には見えないことだけが識別手段だ。
ならば、今観ているシーンの奥に映っている、こちらに歩いてくる人影は? あれはただの通行人か、それとも……? ディザスターピースの手掛けるシンセ音楽も相まって、不安の絶えない映画である。


以下、ネタバレに該当する作品解釈の記述あり






セックスしたやつ(あるいはしそうなやつ)から先に殺されるのは、スラッシャー映画のお約束。
そこには「だから安直に快楽を求めるな、セックスには気をつけろ」という教訓的側面と、「どうせオレらには縁のない世界の話だよ! 死ねバーカバーカ!!」という作り手の過去のフラストレーションの反映的側面がある。

本作の「それ」が興味深いのは、そうした従来のホラーの法則に当てはまらないところだ。
「それ」はセックスによって伝染するものだが、セックスによって(しばらくの間は)回避することもできる。セックスは呪いでもあるが、生き延びる手段でもあるのだ。このあたりが、「それ」を単に性病のメタファーであるとは考えにくい所以である。

「それ」はおそらく死そのものである。
そう思われる理由は、友人ヤラが引用するドストエフスキーの『白痴』の1節からも匂わされているが、ジェイが19歳という年齢であり、デートやセックスが大人への道とされていることもある。大人の許可を得られなければ超えることのできない、デトロイトの中心と郊外を分ける「8マイルロード」への言及もそうだ。
大人への道を歩み出すことは、死が近づくことでもある。「それ」に感染することは、死を意識し始めることでもあるのだ。

誰にも死を避けることはできない。だからジェイたちは「それ」を消し去ることができなかった。
ただ、いつかやってくる死の恐怖を、心から信頼できる誰かとそっと分かち合うことはできる。それこそ人間の救いであり、強固な愛情の形ではないだろうか。
そう考えると、あのラストには不吉さと同時に、優しさも感じられると思うのだが。

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