2016年7月19日火曜日

ノック・ノック

「いいぞもっとやれ」なのか、「もうやめたげて!」なのか。

ノック・ノック('15)
監督:イーライ・ロス
出演:キアヌ・リーブス、ロレンツァ・イッツオ



そうだよな、いくら美女が訪ねてきたっていっても家に上げるのは怖いよな……と、教訓を得た気になってしまったがちょっと待て。
自分をキアヌ・リーブス(イケメン50歳)と同化するんじゃない。だいたい、同じ「大雨に降られて通りすがりの家に駆け込む」というシチュエーションでも、

自分の目には事態がこういう感覚で映っていたとしても……

 駆け込んできた相手の目には、事態はこう映るかもしれないぞ!

上記シチュエーションは『ムカデ人間』を引用しましたが、『ロッキー・ホラー・ショー』でも可です。

建築家のエヴァンはビーチへ休暇に行く家族を見送り、仕事のため一人家に残っていた。その夜、誰かが玄関のドアをノックする。開けてみると、豪雨でずぶ濡れの若い女が2人。道に迷った上、携帯が水没して困っているらしい。
エヴァンはその2人、ジェネシスとベルを家に招き入れ、タクシーを呼んでやることに。彼女らはエヴァンに好意的な素振りを見せ、次第に距離を縮めてくる。家族のことを思い拒否するエヴァンだったが、しまいには誘惑に負けて彼女らと3Pに及んでしまう。それが地獄の始まりだった……。

『ホステル』『グリーン・インフェルノ』といった王道イーライ・ロス作品に比べれば、本作で流れる血の量は申し訳程度。
だが、残酷度はある意味それらをしのぐ域に達している。

旅先で拷問されたり喰われたりといった残酷さには、現実感がないという人もいる。
遠くの地の実情など分からないし、殺人ウィルスや娯楽スナッフや食人族なんか存在しないだろうし、第一よそへ行って怖い目に遭うのが嫌なら、安全圏たる自宅に留まっていればいい。
しかし、その安全圏に実は恐ろしいものを招き入れてしまったら? そいつがあからさまに自分を殺そうとしなくとも、少しずつ確実に自分の築き上げてきた人生を壊し始めたら? 

「そんなの知らない人を家に上げなきゃいいだけのことだし……」と片づけるなかれ。浮気という形で、もうトラブルを招き入れちゃってる人がいないとも限らない。
「いや、浮気とか男女関係とか自分には無縁ですから……」とも片づけるなかれ。安全圏にうっかり招き入れる大ダメージは、人の形をしているとは限らない。例えば、SNSでプライベートな写真や動画をヘタに扱ってしまったとかな。
食人族に喰われることに現実感がないなら、こういうトラブルなら痛いほど現実的じゃないのかな。

イーライの世界には、もはや安全な場所など存在しない(それを言ったら実際、真の安全圏など存在しないけどね)。誰もが全身ただれたり手足を切断されたりするわけじゃない。しかし、肉体的ダメージは大したことなくとも、精神と社会性は生きたまま喰われるぐらいのダメージを喰らうかもしれないから、心当たりのある人は覚悟したほうがいいよ。

それにしても、そんなズタボロになる役をよく引き受けてくれたものだよ、キアヌ・リーブス。昨年の『ジョン・ウィック』で無双ぶりを披露してくれたかと思ったら、今度は美女2人相手にあっけないほどのやられ役ぶり。
元殺し屋でもない限り、「今の生活を壊してはいけない」「自分より(おそらく)弱いであろう相手を殴ってはいけない」という社会の目には弱い。

本作を「浮気心に対する痛すぎるしっぺ返し」とみなした場合、エヴァンの落ち度はギリギリである。バスルームで美女2人全裸待機の段階まで何事もなかったのだから。
とはいえ、そこまで我慢したレベルの浮気心であっても、些細なヒビから陶磁器が割れるようにあっけなく人生はズタボロになるのである。どうしようもない事故なんて言い訳じゃ済まない。

逆に「パーフェクトな人生に対する積もり積もった羨望」とみなすと、エヴァンは冒頭からして有罪である。
高級住宅地の広ーーい家に住み、立派な仕事をしていて、美人で芸術家で優しくてユーモアのある妻がいて、パパが大好きな子どもたちがいて、仕事相手も良き友人で、ターンテーブルとKISSのレコードまで持っていて(個人的にはコレが一番羨ましい!!!)……
と、「不公平だ! せめて早めにハゲろバーカバーカ!!」と地団駄踏みたくなる社会的優位性。経済的にも人間関係的にも負ける気しかない人間にしてみれば、せめてフィクションの中でだけでも形勢逆転してみたいじゃないですか!! というドス黒い発散にもなりうる映画である。
ただ、そこまでして人を転落へと追い込むジェネシスとベルに、いったいどんなモチベーションや人生背景があったのだろうか……と考えるにつけ、自分のざまぁみさらせメンタリティがいかにちっぽけか思い直させられるよ。


以下、ネタバレではないにしろひとまず伏せておいたほうがいいかもしれない記述あり




さらにもう一つ、イーライ自身が示した、この映画に対する興味深い仮説がある。それは、「ジェネシスとベルは実は存在せず、すべてはエヴァンの頭の中で起きたこと」かもしれないという可能性である。(映画秘宝2016年7月号P51参照)
鵜呑みにするにはいろいろと疑問が生じる話ではあるが、この説が正しいとしたら、きっかけは久々にターンテーブルでかけた爆音のレコードか、久々に嗜んでみたパイプか、あるいは家族の目を気にせず一人で過ごす夜そのものか。

いずれにしても、エヴァンは気づいてしまったのかもしれない。
オレはここで何をしているんだ? DJとしてカッコいい音楽をかけまくって、あちこちを飛び回って、若い女の子にモテまくっているはずじゃなかったのか? 家族を気にして、社会性を気にして、満ち足りてはいるけれどちっぽけな型にハマった人生じゃないか! オレはこんなはずじゃない……!!」等々。

つまり、その後すべてをことごとくぶち壊してしまったのは、エヴァン本人ということになるのだ。
そう思うと、「浮気も家族も自分には関係ない」「安全圏にいれば大丈夫」「トラブルを招き入れないようにすれば大丈夫」なんて、ますます言ってられなくなるよね。

しかし、いずれの観方にしても、揺るぎない事実をジェネシスとベルは語っていた。
犠牲になるのは家族
これこそ、最も残酷にして最も現実的な真実ってやつじゃないんですかね?

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