2012年10月31日水曜日

マリリン・マンソン/This Is Halloween

異形の神、異形のテーマを歌う。

MARILYN MANSON
This Is Halloween('06)




マンソンが「異形の神」扱いだったり、『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のサントラ全体ではなくマンソン単体なのは、時間短縮のためだけではなく、個人的な思い入れが強いからです。というか、プロフィールにある通り、ロック界における我が人生の師匠だからです!

異形のものたちが主役に躍り出るハロウィン・ソングは、もともと異形の存在であるロックスターの中でもキワモノすれすれ(いやきっぱりとキワモノ?)な感じに異形なマンソンがカヴァーするのにぴったりだろう。音のほうも、ヘヴィなギターはそこそこに、シンセサイザーが幽霊屋敷のようなチープかつ怪しげな空気を漂わせている。「チープかつ怪しげ」は、ハロウィンを魅力的にするポイントだ。

この曲に漂うファンタジーっぽさや可愛らしさを抽出するという点では、2枚組サントラ収録のパニック!アット・ザ・ディスコのカヴァーのほうが上手いといえる。ただ、可愛らしさはにじみ出るけどベースはあくまでおどろおどろしいんだぜというハロウィンタウンの住人たちの雰囲気には、やはりマンソンの声が合う。何より、彼一人で何種類ものゴースト/クリーチャーの声が務まってしまうんだから。

本当は、マンソンがハロウィンイベントでコレを歌っているライヴ映像を貼りたかったのだが、残念ながら元動画は消えてしまった。
代わりに、『ナイトメア…』のオープニング部分にマンソンのカヴァー版をのせたバージョンの動画↓を添付しました。

ナイトメア・ビフォア・クリスマス

異形っていうのは普通のこと。

ナイトメア・ビフォア・クリスマス('93)
監督:ヘンリー・セリック
出演(声):クリス・サランドン、キャサリン・オハラ



これは、年間を通して店頭に並ぶハロウィンであり、ハロウィンムービーであると同時にクリスマスムービーにもなる一本であり、ホラーに出てくる幽霊やクリーチャーがダメな人でも手にとれるモンスターであり、ティム・バートンファンのバイブルである。と同時に、バートンのストライプ・うずまき・縫い目フェティシズムの集大成でもある。
そうそう、この映画はティム・バートン作品にクレジットされているけれど、本作の監督はヘンリー・セリックなので、お間違いのないよう。

ハロウィン・タウンの王様、ジャックは今年もハロウィンを大成功に収めるが、その陰で毎年ハロウィンをくり返し恐怖をつかさどることに虚しさを感じていた。ジャックの気持ちに気づいているのは、密かに彼に思いを寄せているつぎはぎ人形のサリーだけ。
そんなとき、間違ってクリスマス・タウンに迷い込んだジャックは、その暖かく華やかな世界に魅せられる。戻ってからもクリスマス・タウンの様子が忘れらないジャックは、今年は自分たちハロウィン・タウンの住人でクリスマスを作ろうとするが……。

ストーリーを要約すると、主人公の自分探し劇に陥ってしまうところだが、それが巧妙に隠されているのは、ひとえにダニー・エルフマンのスコアと、異形のキャラクターたちのおかげだ。
主人公は骸骨、ヒロインはつぎはぎ人形。そのほかのハロウィンタウンの住人たちも、口が裂けてたり顔がつぶれぎみだったり、というかそもそも人外魔境で、一般的な意味で可愛いとは言いがたい。でも、ハロウィンの世界では、それこそ当たり前。もっと言えば、アウトサイダーの代表格たるティム・バートンにとっては、異形が当たり前なのだ。

ハロウィンタウンの住人たちには、バートンの異形に対する愛情が詰まっている。
バートンお気に入りのストライプ柄やうずまき模様や縫い目デザイン、外見とは不釣り合いなような愛嬌や優しさ、ダニー・エルフマン作の素敵な歌をプレゼントされている。そのため、一般的には可愛くないはずのキャラクターたちが、何とも可愛らしく見えてくる。
特に、ジャックは長い手足がエレガントにすら映るし、異形の王様ながら異形であり続けることに密かに悩むアウトサイダー中のアウトサイダーなところは、バートンらしさのカタマリ。
サリーはパッチワークドレスがおしゃれで、それ以上にジャックに献身的な様子が泣けてくるほど健気。
悪役のウギー・ブギーですら、ズタ袋な体からちょこんと伸びた手足でヒョコヒョコ踊る様が何ともおかしい。
ここでは、可愛くてきらびやかで、一般受けのいいクリスマスこそヨソ者なのだ。

なお、この映画のDVDコレクターズ・エディションには、バートンの初期短編アニメ『ヴィンセント』と、短編実写映画『フランケンウィニー』が収録。古典のユニバーサル・ホラーに影響を受けた異形愛が、顕著に炸裂しています。

2012年10月30日火曜日

ハロウィンⅡ(2010)

かぞくがいちばん(死んでるけどね)。

ハロウィンⅡ('10)
監督:ロブ・ゾンビ
出演:マルコム・マクダウエル、ブラッド・ドゥーリフ



家族愛。日本人がやたら好きなテーマ(海外がどうかはよく分かっていません)。映画業界も家族愛を売りにしたがる傾向に。
というわけで家族愛好きの皆様、こちらも立派な家族愛テーマの映画ですよ。観ててもあまりほっこりしないし、血みどろだし、やたら人死ぬけど。

ハロウィンの夜、殺人鬼マイケル・マイヤーズは妹ローリーの手で葬られたはずだった。しかし、遺体を運搬する最中に輸送車が事故に遭い、運転手らは死亡、マイケルは行方不明に。
それから1年後。トラウマを抱えたローリーは、事件のあったハロウィンの日が近づくにつれ、マイケルの悪夢に怯えるようになる。ルーミス医師はマイケルについての著書を出版し、講演で多忙な生活を送る一方で、事件の遺族に売名行為と糾弾されていた。
そして、姿をくらましていたマイケルは、母親の幻に導かれ、再びハロウィンの日のハドンフィールドへと向かっていた……。

前作『ハロウィン』で、後半のスラッシャーパートに「ロブ・ゾンビのオレオレ度が低めでちょっと物足りない」と注文つけた身なので、そのオレオレじゃないパートをいっそう引き延ばした本作のほうが、どうしても前作以上に物足りなくなってしまうもので。
もちろんスラッシャーホラーとしては優等生級なのだが、ロブ・ゾンビの場合、優等生になるよりも、多少ごった煮状態でも我が道を爆進していただいたほうが面白くなりそうに思える。

また、一番オレオレが炸裂していたキャスティングについても、相変わらずホラー好き的に濃い面々がそろっているのだが、だいたいが前作からの続投なので、これまたどうしてもサプライズ感が減ってしまうもので。嫁さんシェリ・ムーン・ゾンビの魅せ方にも気合が入っているが、個人的には彼女はああいう幻想的な存在よりも、生身の人間として存在し、ちょっと下品な魅力を振りまくほうが素敵なように思える。

そんな中、『悪魔のいけにえ2』のDJストレッチことキャロライン・ウィリアムズがいたのは嬉しい限り。
また、ローリーたちのパーティー仮装が、『ロッキー・ホラー・ショー』のフランクとマジェンタとコロンビアというあたりにも、ロッキー・ホラー中毒者としてニヤリ。

前作では、人間としての背景に肉付けはされたものの、心はほとんど空洞のままだったマイケルだが、今回ロブはマイケルの心にもいくぶん肉付けをしたらしい。
それは、マイケルの原動力が「愛する家族の再生」ということ。思えば、前作でマイケルの母が家族のためにストリップクラブで踊るときに流れる曲「Love Hurts」が本作の締めくくりになるのは、「家族愛」が一貫したテーマである印の一つ。マイケルの過去と同様に、評価が割れるポイントだが、そこへ踏み込む冒険心と意欲はやはり買い。
当然だが、一般的な意味での暖かさや涙に溢れた家族の再生物語ではない(涙はあるけどね、違う意味で)。現に、ラストはバッドエンドとハッピーエンドの狭間のよう。スカウト・テイラー=コンプトンは、あのラストショットのためにローリー役に起用されたのではと勘繰りたくなる。

家族愛をテーマに持ってきながら、普通の家族観とはだいぶ違ってひねくれているあたりでは、ティム・バートンのノリに近いものがある。ロブもまた、「こんな素敵な嫁さんいるけど、オレ普通の家庭人にはならないもーん」アピールの人なのだろうか。

2012年10月25日木曜日

ハロウィン(2008)

肉付けされた亡霊。

ハロウィン('08)
監督:ロブ・ゾンビ
出演:マルコム・マクダウエル、ブラッド・ドゥーリフ



なんか分かる。マイケル・マイヤーズにもう少し具体的な背景を作りたくなる気持ち、スゲェよく分かる。
何せ、オリジナルの1978年版『ハロウィン』で、誰にも気づかれずぬぼーっと佇むマイケルの姿が、郊外で行き場をなくしたアウトサイダーの亡霊に見えてしまった人間。自身もアウトサイダーたるロブ・ゾンビが自己投影したかのようなマイケル像には、大変納得がいく(あれがロブの実際の家庭環境だったってわけではないものの)。

もちろん、そこが最大の評価の分かれ目には違いない。
だが、原作にリスペクトがあって、原作の重要なポイントも押さえていながら、賛否を大きく分ける要素も盛り込む意欲はリメイクとして優秀なほうに思える。

ハロウィンの夜に家族を殺した少年が、成長してから精神病院を脱走して故郷に戻り、実の妹を追い詰める……という基礎は、もとのジョン・カーペンター版とあまり変わらない。ロブ版のほうがいくぶんカラフルで、犠牲者数も増えて、流血描写もアップしてるぐらい。
ただし、人間として生まれてはきたのだが、次第に亡霊のような殺人鬼になっていくマイケル・マイヤーズの「人間」の部分に、ロブはアウトサイダーの要素を用いて肉付けしていった。貧乏な家庭に生まれ、同居している母のヒモ男にはバカにされ、姉からは邪険に扱われる。学校では友だちもなく、母がストリッパー稼業をしていることでまたバカにされる。そしてついにハロウィンの日、自分を虐待してきた人々を惨殺……と書くと社会が生んだモンスターみたいだが、家庭と学校の苛酷な環境がマイケルを殺人鬼にしたのかといわれると、それは違うんじゃないかと。

そう思うのは、ロブがマイケルの心にまでは肉をつけず、空洞のままにしたからだ。
愛情を注いでくれる人(母)も、愛情を注ぐ対象(妹)もいながら、家族を殺していまう。収監されてからも母はマイケルに向き合おうとしているし、親切にしてくれる看守(ダニー・トレホ。ガチの刑務所経験がある人が語ると説得力増します)もいるのに、目を離した隙に看護士を殺害。成長して巨漢の青年になったと思ったら、護送と同時に警官を殺し、トレホ看守すら手にかけてしまう。
なぜ周りの愛情が哀しいほど届かないのかは分からない。行動の説明が今一つつかない。マイケルの闇に手をつけなかったから、人間・マイケルが徐々に怪物性を増し、亡霊/殺人鬼と化す過程が保たれたのかもしれない。

「人間」マイケル・マイヤーズには自己を投影し、「亡霊」ブギーマンにはスラッシャー・ホラーの星としてのリスペクトを注ぐというのがロブの魂胆だろうか。となると、マイケルが故郷で大量殺戮をくり広げる後半がちょっと物足りないのは、ロブのオレオレ度が低めだから?

まぁ、今回ロブ・ゾンビのオレオレが一番出ているのは、何といってもキャスト。マイケル・マイヤーズに翻弄されたり殺されたりしているメンツが、ちょい役も含め実にホラーオタク向け。
『時計じかけのオレンジ』のアレックス君に、『チャイルド・プレイ』シリーズのチャッキー君、女王シビル様(本名か)。
マーダー・ライド・ショー』&『デビルズ・リジェクト』からは、ファイアフライ一家のオーティスとベイビーとマザーとルーファス(これはマイケル当人か)、ワイデル保安官兄弟、アンホーリー・ツーのロンド兄貴、キャプテン・スポールディングと義兄弟チャーリー・オルタモントと、もはや鉄板のロブ・ゾンビ組。こういう顔ぶれを探す遊び心は、ロブファンにとっては嬉しいところ。
あと、嫁さんシェリ・ムーン・ゾンビを魅力的なキャラにするってポイントにおいては、ロブはまったくブレないし達人ですよ。

2012年10月23日火曜日

インブレッド

これが、変態鬼畜の、モンティ・パイソン形!

インブレッド('11)
監督:アレックス・シャンドン
出演:ジョー・ハートリー、シェイマス・オニール



下に貼ったのは、本作のメインテーマ「The Inbred Song (Ee by gum)」。Ee by gumは北部の方言でOh my godだそうです。日本語訳は「こんチクショウめ」になっています。
言われなくても分かることですが、下に書いてあるのは歌詞の訳ではありません。


♪ 聞かせてやろうー 悲劇の実話をー Ee by, ee by gum!
  監督に釣られてー つい観てしまったー Ee by, ee by gum!!
(間奏)
♪ コレ語るときー ボルテージ上がるー Ee by, ee by gum!
  たぶん普段よりー ドン引きされるー Ee by, ee by gum!!
(間奏)
♪ しかもテーマ曲ー 頭っから離れないー Ee by, ee by gum!
  ついにiTunesでー 購入に至るー EE BY, EE BY GUM……!!!

……観ていて気分悪くはならなかったものの、どうやら自分は違う意味で大丈夫じゃないようです。

更生プログラムの一環として、社会奉仕活動を義務付けられた少年犯罪者たちと、引率の保護観察官。彼らがたどり着いたのは、カーナビに載っていないモートレイクという村で、住人たちはどこか怪しげ。
不審に思いながらも翌日活動を始めた中、彼らは村の若者たちとモメて、挙句監察官の1人がケガをしてしまう。助けを求める少年たちと監察官だったが、パブの店主をはじめとする村人たちに捕えられ、殺人ショーの見世物にされていく。

Inbredとは「近親交配の」という意味。劇中では明言されていないが、どうやらモートレイク(Mort Lake=『死の湖』ってまたどストレートな……)の住民たちは、かつて隔離施設に収容されていた精神異常者の近親婚で生まれた子孫たちで、現在もタガが外れまくった方向に磨きをかけて繁栄中……という「はい、倫理的にアウトーー!!!」な設定らしい。全員薄汚くて(一部はあからさまに汚くて)歯並びガバガバという見た目設定もいろいろアウトだろう。

しかし、基盤は思いっきりインモラルながら、中核となる残虐描写は、スプラッターファンからしてみるとちょっと拍子抜けするかもしれない。もちろん、普通の観点からすれば十分ムゴいのだが、「あ、あれ? 来るぞ来るぞって結構引っ張ったわりにすぐ死んじゃったけど!?」というあっさり気味に。
被害者たちが射殺や轢き逃げで村人に逆襲というところで、ずいぶんと派手に人体を破壊するサービス精神(仮)もあるのだが。

意外にあっさりな死や、ド田舎で大量殺戮系ストーリーは、ハーシェル・ゴードン・ルイス(スプラッターの始祖といわれる監督。要はスクリーンで初めて人間の内臓を出しちゃった人)の『2000人の狂人』を明らかに意識しているといえる。
そのへんを知っていると、あるいはシャンドン監督の過去の血みどろ作品がビバご都合主義で結構ワンパクだと知っていると妙に納得するところもあるのだが、事前情報なしのまっさらな状態で観ると辛口になってしまいそうだ。
このあたりは、「変態鬼畜の最新進化系」だの「殺人オリンピック」だの「殺しのハイスコア」だの「ガマン大会」だの、ちょっと本来の筋と違ってしまった宣伝の煽り文句にも責任があるんじゃないかという気もする。

そんなわけで、私個人がこの映画で「おおっ!」と感動すら覚えたのは、スプラッター描写ではなく、ブラックすぎるお笑い部分だった。この手の映画で、まさかモンティ・パイソンを意識した笑いが見られるとは思わなかった。
和気藹々としながら殺しに興じる村人たちの様相は、和気藹々とした雰囲気でタブーなやりとりをするパイソンズのごとし。また、動物虐待と、逆に過剰な(そして間違った方向性の)動物愛をおちょくるところも、パイソンズおなじみのネタ。『人生狂騒曲』を観た人なら、アレで人体がパーンとなるシーンで、テリーJが演じたデブ男クレオソートを連想するだろう。何より、見世物小屋の「裸のオルガン奏者」を見たら、第3シーズンのテリーJを思い出さずにはいられない! 

そういえば、ボツになったパイソンズのスケッチの中に、レストランでワインを飲んだと思ったらそれは×××××だったという通称「ウィー・ウィー・スケッチ」があったらしいのだが、それに近いネタもあるといえばある。シャンドン監督、実は結構なパイソニアンじゃなかろうか。

また、パイソンズを観る限り、イギリス人は自虐ネタを嬉々としてやるようだけど、舞台となったヨークシャーの皆さんはこの映画をどう思ってるんだろう?

ちなみに、シャンドン監督が過去に制作した低予算ホラー『Cradle Of Fear』の予告がこちら↓。私ひいきのバンド、クレイドル・オブ・フィルスのボーカリスト、ダニ・フィルスが主役に。念のため、流血がダメな方はご覧にならないほうが。本編を観たい方は、今のところYouTubeで検索したら出てきます。字幕はありません。
あと、BGMのクレイドルの曲も、ダニのボーカルがキャーキャーしてて、ダメな方には耳に障るかもしれません。私は初めて聴いたときから大好きですが。

2012年10月22日月曜日

ハロウィン(1978)

郊外こわい。

ハロウィン('78)
監督:ジョン・カーペンター
出演:ドナルド・プレザンス、ジェイミー・リー・カーティス



行ったこともない人間が言うのもなんだけど、アメリカの郊外は見ていて怖い。同じような中産階級の家が並んでて、学校時代に成立した階級制度(スポーツができて健康的なジョックスがトップで、オタク=ギークや黒ずくめでロック好きのゴスが肩身狭い)が、そこに住み続ける限り後の人生にずっと影響する。開放的に見えて、結構な閉鎖空間だ。
あれはあれでじわじわ怖いのに、そこに殺人鬼なんか放り込まれた日には……。

1963年、イリノイ州ハドンフィールド、ハロウィンの夜に、6歳の少年マイケル・マイヤーズが姉を殺害する事件が起きた。それから15年後、成長したマイケルは精神病院を脱走し、故郷ハドンフィールドへと戻る。マイケルの担当医ルーミスは彼を追跡するが、マイケルはすでに高校生のローリーに接近していて……。

スラッシャーホラーもののメインを張れる、なかなか死なない系殺人鬼の元祖、マイケル・マイヤーズ。いわばジェイソン・ボーヒーズやフレディ・クルーガーの先輩。ただし彼らとは違って、シリーズ化されたから何度も甦ったのではない。このパート1の時点で何度も甦っているのである。
過去のシーンを見る限り、マイケルはごく普通の典型的郊外住まい中産階級家庭に生まれたようだし、見た目はごく普通の男の子。しかし、どういうわけか、感情だの良心だの倫理だのがすっぽりと抜け落ちてしまっているらしい。それが証拠に、幼いころの姉殺害も、動機が何一つわからない。後のシリーズで実はマイケルの妹と判明するローリーについても、なぜそんなに殺したいのかわからない。
マイケルの心はあの白マスク(裏地がカーク船長なのはマニアなら知ってますが)そのまま、トラウマも快楽もない無表情で、限りなくブラックホールなのだ。

もともとはただの人間のはずのマイケルだったが、終盤にくると不死身の領域へ。どんなに致命傷(もしくはかなりの深手)と思われる傷を負っても、むっくり起き上がる。まるで、マスクと心の空っぽさに、怪物性が追い付いてしまったかのようだ。
ただ、厳密にいうと、マイケルは「怪物」というより「亡霊」だ。実はマイケル、殺人やヒロインとの追っかけっこに興じるよりも、ただそこいらにぬぼーーっと突っ立って、人々(その多くは後々殺される)を見つめている時間のほうが長いのである。

大いに個人的な解釈をすると、マイケルは殺人鬼である以前に、郊外で居場所をなくした亡霊だ。チアガールだったりちょっと不良な明るい子だったり彼女いる男子だったりと、日の当たるところにいる連中は、白昼だろうと夜間だろうと、マスクとツナギ姿でこちらを凝視している異様も異様な男になぜか気づかない。マジメ寄りのローリーや、いじめられっ子のトミー少年がおもにその姿を目にとめる。
郊外という閉鎖空間で、隅に追いやられがちなはみ出し者の行き場のない心の投影が、ブギーマン=マイケル・マイヤーズにも見えてしまうのである。とはいえ、そんな心の具現化に友だちをバッサバッサと殺されては、たまったもんじゃないのだけど……。

スラッシャーの先駆けとはいっても、出てくる血は申しわけ程度だし、マイケルも犠牲者メッタ切りや首ハネなどの豪快なことは何一つやってない。ただ、穏やかな日常風景(実は閉鎖的なのだが)にいつの間にか亡霊が紛れ込み、じわじわと距離を縮めてきて殺害に至るというサスペンス要素が、シンプルな物語を最大限に盛り上げている。

さらにそのサスペンスを助長させるのが、ジョン・カーペンター自身がサラリと作ってしまったこれまたシンプルな音楽。この音楽とともに流れるラストショットの郊外風景は、実にゾクッとする。
だって伝わってくるんですよ、どこかにブギーマンがいるんだって。

2012年10月14日日曜日

アイアン・スカイ

月面ナチスの大部分はオタクの夢で出来ています。

アイアン・スカイ('12)
監督:ティモ・ヴオレンソラ
出演:ユリア・ディーツェ、ゲッツ・オットー



今年のニューヨーク、マンハッタン界隈は大変だ。
ワームホールから宇宙人が襲来してくるし、そのせいで核ミサイルまで飛ばされるし。
コウモリでおなじみのあの街もマンハッタンあたりがモデルだとしたら、頑強マスク一派による核爆弾&都市孤立化事件まで起きたことになる。
で、こいつらも来ちゃったし。

終戦時に実は月へと逃亡してたナチスが、満を持して地球に攻めてきました。……それ以上でもそれ以下でもないお話。
一応、「アメリカ保守派のやってることだって実はナチスとあまり変わらないんでない?」「ある意味もっとヒドくない?」「利権が絡めば国連だって泥仕合になるよねー」などの皮肉や、アメリカ宇宙戦艦「ジョージ・W・ブッシュ」号などのブラックユーモアがちりばめてあるが、スパイス程度。メインはとにもかくにも「月からナチスがやってきたんだーーー!!!」の一点。そしてその一点をゴリ押ししたのが大変良い。だからこそスパイスもよりよく活きる。

そのゴリ押しの最たるものこそ「鋼鉄」。月面ナチスの鉤十字要塞しかり、円盤「ワルキューレ」しかり、最終兵器「神々の黄昏」号しかり、黒ずんだ鉄や歯車がむき出しで、ゴゴゴゴゴと重々しい音を発して動く。小型・薄型とはほど遠く、洗練からはもっと遠く、スケールと重量でいっぱいいっぱい。
一見、笑いをとるためにやりすぎ感で盛り上げたようだし、実際その意味もあるが、それ以上に、ムダに重厚な装備やマシンの類についガッツポーズしたくなるオタクの愛情で盛り上がっているのである。実際、この映画はWebで予告を観たファンからカンパを募って作られたのだから、月面ナチスと鋼鉄の機械はいわば映画ボンクラの結晶だ。
大統領広報官改め宇宙軍指揮官には「短小コンプレックスの表れね」と切り捨てられていたが、どちらかというと中学男子的スピリット(実際の年齢・性別不問)の表れである。

なお、機械だけでなく、音楽も鋼鉄。ナチス・全体主義的イメージで批判を浴びた(もちろん確信犯)スロヴェニアのバンド、ライバッハが担当している。鋼鉄といってもヘヴィ・メタルではなく、ノイズや機械音に彩られた重々しいインダストリアル。先述の鋼鉄要塞&飛行物体にあまりにもぴったり。
愛国歌を替え歌した「月面帝国国歌」があったり、ナチス軍ではなくアメリカを筆頭とした国連宇宙軍の攻撃時に「ワルキューレ」(『地獄の黙示録』でおなじみのアレ)のアレンジ版が流れたり、終盤の最も不毛かつ皮肉なシーンでアメリカ合衆国国家の替え歌&アレンジ版が流れるなど、表現のために批判の最前線へ突っ込んでいくライバッハらしい皮肉も。ビートルズやストーンズや『ジーザス・クライスト・スーパースター』の独自すぎるカヴァー曲をやったセンスが活きている。

そうそう、ナチス軍服のヒロインというと、女王様風格だったり、露出が高くていい感じに下品なところが魅力的なタイプによくお目にかかる(下のフェイク予告に出てくるシビル・ダニングやシェリ・ムーン・ゾンビが例)。
そこへいくと、ユリア・ディーツェ演じる本作ヒロインのレナーテは、どちらかというと可愛らしいタイプで、性格もピュア。おまけに声も可愛い。彼女だったら、ナチ軍服だろうとナチ式敬礼しようと演説ぶとうと、好感度が上がります。むしろ演説やっていただきたいものです。

ナチスついでに、タランティーノ&ロドリゲスの趣味企画・グラインドハウスのフェイク予告編でロブ・ゾンビが作った『ナチ親衛隊の狼女』ってのもありまして(リンク先日本語字幕なし)。
フェイク予告のはずが本当に本編が作られた『マチェーテ』『ホーボー・ウィズ・ショットガン』よろしく、こちらも制作が進められると思ったが、誠に残念ながら中止に。観たかったなぁ、マッド・サイエンティストなビル・モーズリィと、素敵に方向性を見失ったニコラス・ケイジのフー・マンチュー。ちなみに、『アイアン・スカイ』で月面総統だったウド・キアーもいらっしゃいます。

2012年10月12日金曜日

ウェンズデイ13/トランシルヴァニア90210

B級ホラーの友。

WEDNESDAY 13
Transylvania 90210  Songs Of Death, Dying, And The Dead('05)



ハロウィンシーズン、毎年「無いんだろうけどなぁ」と思いつつ、つい探してしまうお菓子がある。棺桶ケース入りの人骨型キャンディである。
なんでも、頭蓋骨、肋骨、大腿骨など頭から足先まで骨格がそろっているらしい。「らしい」というからには、私自身はそんなキャンディにお目にかかったことがないわけであって。特に思い出もないわけであって。
そんなものを何で探しちゃうのかというと、「キャンディの骸骨を組み立てたら、そいつが生き返って、引き出しからナイフ持ってきて『何を待ってんだよ、オレのために殺しちゃえよ』と言った」なんて素敵にホラーでチープな空想を歌にしちゃった男がいるからですよ。

お名前はウェンズデイ13。スリップノットのジョーイと組んだプロジェクト、マーダードールズが有名。昔は、フランケンシュタイン・ドラッグ・クイーンズ・フロム・プラネット13という長ーーい名前のバンドをやっていた……と、ご本人のステージネームやバンド名からして、むせ返りそうなほどB級ホラー臭が漂うお方。
もちろん曲名や歌詞もB級ホラー色豊か。M5「House By The Cemetary」とかM13「The Ghost Of Vincent Price」とか、いちいちネタが分かる人がいたら友達になりたい感じの。
中でもM7「Haunt Me」が一番直球のハロウィンソング。「ハロウィンにはホラー映画(もしくは『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』)だ! それに付き合ってくれる友達はいないけど!」な同志に発信しているように思えるのは自分だけだろうか。

B級ホラーと同じくらいウェンズデイが影響を受けたのが、元祖ショック・ロッカーことアリス・クーパー。音楽自体はキャッチーながら、クセのあるボーカルとビジュアルがポップかつ毒々しいというアリスの特色は、ウェンズデイにも当てはまる。
キャッチーなロックンロールに乗っかったB級ホラーな歌詞は、チープな血糊みたいに毒々しくも鮮やか。それを歌い上げるウェンズデイのボーカルがまた、しわがれてはいるがデス声ってほどのドスや獰猛さもなく、何とも親しみやすいモンスターのよう。「親しみやすいモンスター」って一見矛盾してるようだけど、ある程度のホラー好きって、ゾンビや殺人鬼キャラのファンだったり「可愛い」なんて形容詞を使えたりするんですよ。ホントに。

そんなノリなので、「お前なんか大っ嫌いだ、死んじまえ!」「神様なんてウソだ!」「大統領に死を!」なんて少々物騒な歌詞も、可愛げのほうが勝るうえに一緒に歌いたくなるほど。実際、'05年の来日公演ではみんな一緒に歌っていた。
でも、本国アメリカで毎年のようにやってるハロウィンライヴは、もっとハイボルテージなんだろうなぁ。羨ましい限り。

ちなみに、「I Walked With A Zombie」に使われているのは、ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』('68)の映像。ついでに、曲タイトルも『私はゾンビと歩いた!』というRKOホラーから。ロメロ以前のゾンビなので、ブードゥーとの繋がりが深く、半死人だけど腐ってもいなければ人間を喰ったりもしない。むしろ美女。だからゾンビは大して怖くないんだけど、ブードゥーの案内人の異常なギョロ目&無表情の黒人には、暗がりで遭遇したくない人No.1に急浮上するほどギョッとしましたよ。


2012年9月23日日曜日

ピラニア3D

飛び出したっていいじゃないか。バカだもの。

ピラニア3D('10)
監督:アレクサンドル・アジャ
出演:エリザベス・シュー、ヴィング・レイムス



「3Dはそういうことに使うもんじゃありませんっ!!」(大いに意訳)
と、本作を観たジェームズ・キャメロン先生がスゲェ怒ったらしい。しかし、これはさすがにやっちゃいかんだろうなと思うことをやりたくなっちゃう人は、世の中に必ずいますから。というかこの映画の場合、オリジナルである'78年のジョー・ダンテ監督作『ピラニア』に、中学生レベルのエログロ発想を心に秘めてる人ならまず考えちゃうことをいろいろ上乗せしたまでですから。
ただ、まさかアレクサンドル・アジャが、ここまで徹底して「やってはいけない3D」をやらかすとは思わなかっただけで……。

海底地震により湖の底に亀裂が入って、古代から密かに進化してきた凶暴ピラニアが出てきちゃって、若者が大はしゃぎのビーチになだれ込んだからさぁ大変……
というだけのストーリーに、程よくアタマ悪い感じのエロと、行き過ぎじゃないかってほどのグロをこれでもかこれでもかと盛り付けまくっただけの映画。しかし、監督自身がこの手の映画が好きで、非常に分かってらっしゃる方だということは、キャスティングの上手さや小ネタの行き届き具合からしっかりにじみ出ている。

そもそも、ピラニアの第一犠牲者になるおじいさんに、オリジナルの『ピラニア』のそのまたオリジナルである『ジョーズ』のリチャード・ドレイファスを持ってくるというマニア心を刺激するネタでニヤリ。第一犠牲者なのに、肝心の襲ってくるピラニアがとってもチープなCGという狙い澄ました扱いの悪さも、この手の映画に付き物のアホさ加減を漂わせている。
古代魚の専門家というより偏屈なオタク爺さんクリストファー・ロイドと、保安官エリザベス・シューで、『バック・トゥ・ザ・フューチャー2&3』のドクとジェニファー再顔合わせネタも嬉しいところ。

そんなアホや小ネタよりも重要なメインイベント、エロ。それも3Dでやるからには、最重要事項はアレだろう!! ってことに違いない、ダイナミックおっぱいの数々(立体感っていうよりはダイナミズムかも。自分で言っておきながら何の解説なんだか)。
水着だけじゃなく、ノーブラのTシャツの女の子にホースやウォーターガンで水をぶっかける「濡れ濡れTシャツコンテスト」なるイベントがあるのが、なかなかいい感じにバカ。
それ以外にも、ポルノ女優2人の水中全裸レズシーンをムダに長回しとか、女体テキーラ飲みシーンをどアップでとか、3Dとエロときて考えついたことをひたすら実践したような演出が。

ただし、女体テキーラのシーンでは、船酔いしちゃった女の子がデッキから吐いてしまい、飛び出すエロが一転飛び出すゲロに。血しぶきとはまた違うベクトルで、観客をのけぞらせた確信犯的悪趣味である。

しかし、もう1つのメインイベントたるビーチでの血の惨劇は、犠牲者が生きていようと死んでいようと喰われた痕が生々しく痛々しく、冒頭の安い死にざまは何だったのってぐらい容赦ない。さらには、ボートで逃げようとした人がまだ水の中にいる人々を轢き逃げしたり、高台や船が人員オーバーで転覆したりといった二次災害も発生し、追い詰められた人間のエグさがわかる。血みどろでイヤな死に方ときて考えついたことをひたすら実践した、人体徹底破壊ショーである。あまりに過剰すぎて、見る人によっては笑えるレベルだ。

ただ、犠牲になる奴らが、水着でキャッキャ遊んでイチャついて、人の忠告をまったく聞かない若者という伝統的スプラッターホラー死んでよし要員なのは幸い。何ていうか、ざまぁみろ的カタルシスが生まれますし。
また、女の子が喰われたあとに豊胸用シリコンが漂ってるとか、食いちぎられた×××をピラニアが食ってすぐペッしちゃうとか、倫理的には笑ってはいけないのだろうが笑わずにはいられないバカ演出までご健在。
なお、犠牲者の1人が遺した最期の一言「濡れ濡れTシャツ……見た…かっ…た……(ガクッ)」は、この際映画史上に残る名断末魔として刻んでいただきたい。

これで続編『ピラニア リターンズ』が、キャメロン先生の『殺人魚フライングキラー』の黒歴史を容赦なくえぐってピラニアをガンガン飛ばしてくれたら言うことはなかったのだが、残念ながらアジャ監督を欠いた『リターンズ』はそこまでメーターを振り切れず、何とも中途半端な出来に。
エロにしろグロにしろゲロにしろ、バカをやるなら徹底的にやれということは、モンティ・パイソンの時代からの教訓なのですね。

2012年9月21日金曜日

マイティ・ソー

すべては「まぁ、神様だから」ってことで。

マイティ・ソー('11)
監督:ケネス・ブラナー
出演:クリス・ヘムズワーズ、ナタリー・ポートマン



複数の神々がでてくる神話において、神様の仕事とは、人間たちを助けたり見守ったりすることよりも、人間たちに迷惑をかけることらしい。しかも、言い切っちゃえば家庭内不和とか恋愛トラブルとか、限りなく個人的な問題で。その傾向は、舞台が現代に代わってもあまり変わらないらしく……。

神々の国アスガルドで、最強の武器ムジョルニアを操る戦士にして王位継承者として育ったソーは、傲慢な性格から、アスガルドと協定を結んでいた氷の巨人との争いを引き起こしてしまう。父であり主神であるオーディンは、罰としてソーの力を奪い、ミッドガルド=地球へ追放した。
地球に落ちてきたソーは天文学者のジェーンと出会い、彼女との交流から謙虚さと優しさを学んでいく。しかし、その頃アスガルドでは、ソーの弟ロキの企みが進行していた。

力を奪われ追放された傲慢な神……というよりも、調子こいて悪ノリしちゃったせいでお父さんに家追い出された、態度はデカいけど人懐っこくて憎めない兄ちゃんなソー。
単に考えるより行動タイプなだけで、基本的には人が良くて素直なので、怒られたらすんなり聞き入れるし、傷つくとたちまちシュンとしてしまう。そのため、良くいえばストーリーがスムースに進むことになり、悪くいえばちょっとあっさりしすぎじゃないかと思うところも。神様のお家騒動で人間大迷惑ってわりには、被害が及んだのはニューメキシコの小さな町だけだったし(むしろ巨人の国ヨトゥンハイムの被害のほうが甚大)。

ついでに、パワーを失ったとはいっても、人間界のソーは一般人よりはるかに戦闘能力が高い。ムジョルニアを手にできないのは確かに神様たるアイデンティティの危機だが、そのぶんの精神的フォローをしてくれる優しい人々に囲まれている。
境遇のわりに悲壮感がほとんどないのだが、近年悩みをこじらせまくっているヒーローは多いことだし、たまにはそんなに深く悩まないヒーローでもいいよ、と個人的な希望を入れておく。

そんな兄貴の代わりに、悲壮感を一手に背負ってしまったのがロキ。シェイクスピア劇出身のケネス・ブラナーが「古典悲劇的要素は頼んだ!」と全力パスしたボールを、シェイクスピア劇で頭角を現してきた後輩トム・ヒドルストンが「任せてください!」とナイスキャッチしたんじゃないかってぐらい。
一応ソーに対する敵役であり、ストーリーの続きとなる『アベンジャーズ』でもヒーローチームに対する悪役だが、背景がやたらシェイクスピア悲劇的な暗さで覆われてしまったためか、実に人間的なコンプレックスだらけのキャラクター。しかも、ソーと違って理解者や友達に恵まれていなさそう。
ヒーローと対立するにはあまりにもミニマルな動機と悲壮感は、悪としてもかなりグレーゾーンで、うっかりすると親近感の域に入る。

なお、ロキは言葉を操って相手を誘導するのが上手いので、言っていることは常に虚実が入り乱れているのだが、終盤ソーとの直接戦でもれた一言がロキの本音だとしたら、哀しさに拍車がかかる。DVD収録の削除されたあるシーンでの一言も本音だとしたら、なおさら哀しい。

「いやそんな中学生の反抗期みたいな動機でこんだけ被害を出すんかい!!」
「要はアンタの教育がなってないからこういうことになったんじゃないですかっ!?」
とオーディンにクレームを寄せてもいい気もするが、何せアンソニー・ホプキンス。
彼に物申すのは、怖いもの知らずのトニー・スタークか、ニック・フューリーこと説教叔父貴サミュエル・L・ジャクソンにお任せしたい。

ちなみに、この作品も一応『アベンジャーズ』への布石なので、S.H.I.E.L.D.とかエージェントのコールソンとかしまいにはもちろんニック・フューリーが登場する。ノンクレジットながらホークアイことジェレミー・レナーも出ている。さらに「知り合いのガンマ線研究者」「またスタークのか?」など、口頭だけながらほかのヒーローに触れるところも。あと、マーベル映画のお約束「スタン・リーをさがせ!」も……。

2013年末には続編『Thor : The Dark World』が公開予定。本作ではニューメキシコの一部とヨトゥンハイム、『アベンジャーズ』ではS.H.I.E.L.D.本部とニューヨークに甚大な被害をもたらした世界規模の兄弟ゲンカ、果たして第3ラウンドではどこが迷惑を被るのか楽しみ……といってはいけないだろうか。

2012年9月18日火曜日

最強のふたり

泣かせてやらない。

最強のふたり('11)
監督:エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ
出演:フランソワ・クリュゼ、オマール・シー



「感動!!」「全米が泣いた!!」と謳われるほど冷める。
試写会で涙する観客の映像が流れるCM見るほど冷める。
果ては映画本編を観ても、泣かせどころにくると逆に冷める。
私が天の邪鬼または鋼鉄の涙腺なだけかもしれないが、演出する側/演じる側が「はいここ感動ですよ!!!」って無理やり涙腺を刺激しようとしてるように見えて仕方ない。泣けるほど映画の価値が高まるわけではないことは、映画ファンほど熟知していると思うのだけれど、果たして制作側/宣伝側に伝わっているのかな。
涙腺を刺激することよりも、琴線に触れることが大事だろうにね。

事故で首から下が麻痺した大富豪フィリップと、スラム街の黒人青年ドリスは、フィリップの介護者面接で出会った。ドリスは介護経験もなく、3件の不採用証明があれば失業手当がもらえるからと、証明書を受け取るためだけに来ていたのだが、同情のない態度がかえってフィリップに気に入られ採用に。
生活の境遇も趣味も正反対の2人だが、ブラックユーモアと皮肉を込めたやり取りは妙に上手いこと噛み合い、互いの存在が刺激になって人生に新しい楽しみを見出していく。

正反対の人間同士が出会う→ギャップにとまどいながらも友情が生まれる→そこへ新たな壁が……という人間ドラマの王道を一応通っている本作。
王道からズレるポイントは、2人のぶつかり合いがほとんどないこと、立ち向かう障壁が大きく描かれてないこと、そして普通なら感動の場面にするところで笑わせようとしていることだ。

音楽や絵画などの趣味嗜好の会話はあまり噛み合っていないうえ、ドリスはフィリップの障害を、フィリップはドリスの介護スキルのダメさ加減をギャグにする。そこにお互いムキになるのではなく、さらにヒネた笑いで返すという、ひねくれ同士のキャッチボールが実に軽妙。ストーリーが進むにつれて、2人が互いに感化し合い、周りの人々も2人に感化されていく様子が分かるあたりが、さらにユーモラスである。
そんな風に自然に相棒になっていった間柄だからか、どことなく気持ちの通じ合うところは見せても、あからさまに「団結!」というところは見せない。少々思い切った冒険に出るときも、つらさや哀しさを打ち明けるとき/察するときも、盛り上がりすぎず自然な流れだ。

しかし、ときには「感動して泣けると思ったでしょ? 残念ながら笑い入ります!」と、流れを思わぬ方向に変えてしまう瞬間も。この一筋縄ではいかないノリは、フィリップとドリスのヒネたユーモア感覚と通じるものがある。
だが本当にヒネているのは、この感動させない演出が、かえってその前後のシーンをぐっとこさせる効果を高めているということ。「ここで感動ですよ!!」といわれると冷める人には、「ここ感動するとこじゃないよ!!」とアピールしてみる天の邪鬼方式なのか……。実際、結構効果てきめんでしたけど。

意外にどストレートで来たかと思ったら、するりと涙腺をかわす変化球になり、かと思えばまたストレートに琴線にかなりの一撃を入れる。
王道とヒネりを懐の深いユーモアでくるんだ本作は、劇場で大勢の観客と一緒に観たほうが、暖かさもひとしおではないかと思わされた。